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ザ・ホエールのAnima48のレビュー・感想・評価

ザ・ホエール(2022年製作の映画)
4.5
泣きながらご飯を食べたこともあるし、緊張してても明日の為に無理に食べ物を詰め込んだ事もある。自分が図々しく恥ずかしくて不安で哀しくて申し訳ないのにお腹は減ってしまう、いや減るに違いない。それが哀しい。そんな夜には茶碗に箸が当たる音は大きく響く。

でもあんなに悲しくてやりきれない食事の場面はあまり思い浮かばない、チャーリの贖罪のような自傷のような過食。喪失を食欲で補うことでしかいつまでも続く喪失の時間をやり過ごすすべはない。引き出しにいっぱい詰まったキャンディバーを食べまくる。毎日配達されるLサイズピザを食べ尽くす。バケツ一杯のチキンバケットを食べ続ける、ミートボールサンドイッチをよく噛まずに食べ始めて喉を詰まらせる。怒りのあまりキッチン中の棚から夜逃げでもするように食べ物をかき集め食べ物を口に詰め込む。食べ物にサンドバッグのようにフラストレーションをぶつける様子はまるで塩分とコレストロールをありったけ注ぎ込んで憤死を図っているようだった。過食の真実は亡くした拒食の恋人への弔いの儀式にも受け取れるけれど。いずれもフォークやナイフを使わないしきちんと皿に置かれていないので.高カロリーが口に押し込められていく様子が食事というより何かを食い殺しているようにも見える。蟹ならそんなに太らなかったかもしれない、そんなに一度にたくさん食べれないから。・・痛風にはなるかもしれないけれど。

太り過ぎて部屋から出れず余命いくばくもない男が見捨てた娘との絆を一週間弱で取り戻そうとするプロットというのはかなり現実離れしているシチュエーション。自分の人生を懺悔するかのような生活、そこには懺悔や気後れ、気まずさ等の罪悪感の様々な面が含まれている、それはちょっとした人物研究のようだった、そして身内に似た病気の人がいる人には苦しい場面が続いたかもしれない。

重荷を抱えた心と体をどこか露悪的にみせるようなシーンが続いている。自己嫌悪と罪悪感のソーダの上にポンと浮いたアイスのようなチャーリーの体。息荒くもだえる自慰で始まり、腹はズボンの上にせり出し ,何重顎は首の中に埋没して、汗ばむTシャツでチキンの油をぬぐい、よたよたとしか動けない太った体はソファーから離れることが難しい。まるで打ち上げられたクジラのようで惨めな姿、自暴自棄に対する応報を描いていたように見えるし、チャーリーがゆっくりとした自殺をしているようにもみえる。最後の仲間の一人の看護師リズはもう治療の術がないことを分かり切っていて、心臓病のチャーリーにジャンクフードを手渡して医者に診せることをもう勧めない。悟りきって“下で待つ”と言うリズが哀しい。哀しいけれど肉体的なケアが成り立っていない、それはリズもわかっていたのだろう。

仮に周りから軽んじられていたとする、罪悪感とかにさいなまれていても匿名性のあるやり取りはフラットな立ち位置に戻してくれる。極度に太った姿を見せずにやり取りするピザの配達人とはフラットな関係を築いて気負いのない心遣いを受ける。だけど思い切って自分の姿を見せた配達員それに生徒はショックを受け恐怖や嫌悪に満ちた視線に寄越す。善意や寄り添いを職業や仕事にしてしまうといつかそれがルーチンになって手順に沿って行う事が重視されて本来の意図とは離れてしまうのかもしれない。そんな無自覚な利己は相手の一番大切な部分を壊してしまうこともあるだろう。宣教師トーマスはチャーリーにおぞましいと語ってしまう。思いやりとかそんな心のセーフティーネット、ケアが次々と破られていた。

チャーリーには時間がない、ストーリーの最初からもう遅すぎる。なので彼には人に合わせて態度を変えている時間はない、画的にも全くと言っていいほど部屋から出ないし正方形の画面の中ただ部屋の中央で佇み続ける。チャーリー以外のキャラクターは、いろいろな心の傷と人間の誤解に態度や性格・印象を目まぐるしく変え、部屋からの入退室を繰り返す。いろんな性格の要素があってそこに不可抗力や出来心なども加わる。状況、背景の説明などは映像ではなく台詞であらわされるので気が抜けない。

チャーリーは知性、ユーモア、情熱を備えた人物で無欲なのにものすごく利己的、他人の長所は気づくのに自分の欠点は気づかない、生徒に正直に文を綴れというのに生徒には自分の声しか出さず姿を見せない。思い返すとかなり自分勝手な人で、金が無いと嘘をついたり、延命努力をしないで娘を見守りたいって言い出す。そんな二律背反する性格が併存していて他にもリズは病院に行くよう勧めたり治療も行うのに破滅的なジャンク―フードを与える。(チャーリーを面倒見れるのは自分だけという自負心は素敵だけどそれは他者とチャーリーとの間の壁として機能してしまっている。)妻はチャーリーに憎しみを覚えるのに泣きながら胸の鼓動を聴く。という2面性が現実離れした話に現実感を与えていた。

“ごめん”・“すまなかった”、何かあるとすぐに幾度となく謝るチャーリー、対応はそうすることしか残されていない。だけどアランを選んだことについては謝罪をしない、それにトーマスが神学的にアランとの関係を責めた時に激高する。カギを掛けたままのあの部屋はあの人との幸せな時間が止まっているような凍り付いているようなそんな大切な場所、彼はそこで呼吸をし、香りを愛おしむ。あの人の髪の匂いを久しぶりに触れたのかもしれない、あの人の腕に包まれて声を聴いたような気がしたのかもしれない。それは問題を先送りにするというよりも過去の眩い時間を大切にするあまり自分の時間を停めてしまった男の末路のようにも感じる。

先送りにした問題は大きくなる、それに直面した時問題は手に負えなくなるし、残された時間はもうない。客観的に見ると、家族を捨てて連絡も取らない、恋人と逃げ、耽溺に耽り、ほめられたものではない。それで人生の最後に娘と絆を取り戻したいと願うけれど、悪意や怒りをまき散らしている娘は取り合わない。。

遺された時間がないチャーリーはなりふり構わない。娘の機嫌を取り、お金で釣り、あくる日も来なくてはいけない状況を創り出す。でもチャーリーの娘への全肯定は決しておべんちゃらではなくて、チャーリーの価値観は率直さに振り切っているので、娘のやけくそ気味な率直さや偽善・欺瞞への反抗は善行に映る。米文学の到達点と謳われても難解な「白鯨」をこき下ろすエッセイは彼にとって精神安定剤、強心剤以上のもので、聖典、賛美歌のようなものだった。最初は彼女に“チャーリーから見た”自分の価値を見つけて欲しいだけ、そのころには娘への絆よりも遺される彼女がよりよく生きていけるように世界のすばらしさに気づいてほしいように見えた。“僕は信じたいんだ、自分の人生で、一つだけでも正しいことをしたんだって。“

彼と娘が価値観や倫理観の中で重視しているのは率直さでそれは一般的には正直さや潔癖さとして評価される、だけど思いやりや他者への尊重という観点からはそれは露悪的な観点で邪悪さとも思える面を持っている、無理にでもチャーリーはエリーの悪意ある行動の中にも善・正しさを見出だしてしまう。言い換えれば彼はエリーの知性と誠実さしか見ていなかった。

人が人を救えるのかな?聖職者が唱える聖書の一節ですら彼は救えない。いや偽善者が唱える経典がそんなことは出来るはずもない。彼を救うのは荒んでしまった娘が不機嫌に読み上げる昔の作文、それは幸せだったころの浜辺の一瞬に彼を運ぶ。それは長いこと出ていないだろう異臭の漂う薄暗い室から解き放ちまだ身軽だったころの自分に出会える。薄暗い彼の部屋は嘆きと絶望に固く閉ざされた彼の心の中のようで、彼の目をからは外の世界は金色の光に満ちていた。外へ出れなかったのか、出なかったのか。やっと部屋から出れるのかもしれない。ひょっとしたら罪悪感に縛られてその結果の肉体から解き放れて本来天に向かう彼の精神はそれに従ったのかもしれない。

・・今日はお腹が減らない気がする。
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