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アステロイド・シティのAnima48のレビュー・感想・評価

アステロイド・シティ(2023年製作の映画)
4.0
美味しかったり、空腹が満たされたり食事って素敵。でも盛付けの綺麗さや季節の香りの愉しみに集中するのもたまにはいいよね?

目が喜ぶというのかな。脚本、カメラワーク、舞台装置、配色、衣装、音楽、おなじみ俳優たちの統制された演技、早口で抑揚の少ないセリフや綿密なフレーミングや空色と茶色、そして黄色やオレンジを基調としたアイスクリームやシャーベットのようなパステルカラー、インスタによくあるような中心に関心を集める不思議なシンメトリックな構図、パン・ショットの奇妙なノスタルジックさに溢れた雰囲気、端正で細部まではっきり見えるけれどどこか遠くに見える様な世界を作っている、あざといまでに作為的な画面。ポスターにある通りCGのようにも舞台の背景にも似た現実から半歩踏み出しているような画作り、絵葉書といってもいいんだろうか?この世界をじっくりと見せてくれる。映画の中に現実を忘れて迷い込むのは素敵だけど無邪気で明るく見えた画面に唐突に出てくる痛みや虚無感に隙をつかれてしまう。今回は絶対悪や凶暴な存在はないけれど、やっぱりどこか喪失感は漂う。

アステロイド・シティ、わざとらしく見える砂漠にある人口87人の埃っぽい町。カクテルや不動産が自販機で買えて食堂やまるで海の家のような小屋が並ぶモーテル、街から離れたところに隕石が落ちたクレーター、妙にリアルであり鉄道模型のようなミニチュアめいたわざとらしくもある光景。画面の端から端までコントロールされている、それが宇宙人騒ぎに特別仕立ての列車で押し寄せる群衆であっても。秩序だったカオスと言えばいいのかな?きのこ雲が時に立ち込めてバービータウンでオッペンハイマーな絵面からは隠しきれない冷戦の影も見て取れる、そんな50年代。

そこには亡き妻の遺灰をタッパーに入れたカメラマンのオーギー、役作りに没頭する大物女優、浮世離れした天才児達と奇妙な発明品、C&Wバンド、そして超然とした天文学者と権威主義的な軍人がいる、後はまあ、エイリアンとか。そんな街でほんの一時出会うだけだった人たちが拘束されてしまうメインストーリーが進行する、ここだけ2020年代を感じた。なんだかハチャメチャな話に見えて淡々と筋は進む、あるシーンから次のシーンへ向かう方向は予想できないけれど。面白いというよりは魅入る映画なのかもしれない。目が喜ぶような光景を穏やかな喪失感が薄く覆っていた。

そして入れ子。Ⅰこれは『アステロイド・シティ』という小さな町の群像劇、でもそんなものはなくて虚構かつ架空。Ⅱその群像劇を制作過程における俳優や脚本家、演出家のドラマ、でも虚構。Ⅲ制作過程を見世物にした進行役が存在するテレビ番組、という入れ子になっている。モノクロで表現される舞台劇の部分と色鮮やかな映像のパートの部分が相互にどのように変換されているかで少し戸惑う、3層なのか2層なのか、舞台劇の意味合いとか。ADOBEの製品でどのレイヤーで作業しているか自分を見失うみたいに。でも共通して無機質といえばいいのか、過剰な情報と淡々と舌語り口が続く、映画によくあるようなドラマチックな瞬間は少ない、やっと感情移入ができそうな瞬間に、“虚構だからね!と断りを入れてくる。

キャラクターはみんな画面の奥に動くか、横に動く動きに限られたようで、曲がる時は直角的に曲がる。そして顔は真正面か横を向くかで、特にアップが多かった。正面からみたアップで俳優の顔をしげしげと眺める事ができるし、俳優もこちらをじっと見つめてくれてるよう。それでどこかこのキャラクターというか俳優をよく見知っているような不思議な心地がする。

シュワルツマンが演じているジョーンズ・ホールという俳優がアステロイド.シティにやってきたオーギーを演じている、変な日本語だけれどこれが入れ子。ホールもやっぱり近しい人を喪くしていて、俳優として素の自分として"芝居がわからな"くなって“正しいことをしているのか?”という混乱とオーギーとしてのち沈痛かつ超然とした部分の悲しみの表情の差が楽しい。入れ子構造の中で迷っている自分に対しても笑えてきてしまう。

オーギーの愛?が2人と紡がれる。でもそれが表現されるのが舞台の中か外か、正式な演技か読合せによるものなのかという捻じれがあってすごくこの部分を楽しめた。一つは明るい空の下どこまでも続く地平線の彼方が見通せる広い空間で小屋に入って向かい合い、もう一つは暗いモノクロの夜、ビルの谷間で向かいあう。特にミッジに対する沈痛で抑制の効いた表情とカット版での妻役との読み合わせでの獰猛さも覚えるような対比は楽しい。演技とは、リアルな人間(俳優)が、虚構の役柄(キャラクター)に変貌するのを演技だとすると、人間が自分の枠組みを解体して役柄に溶け込んでしまえば、人間がその時思うままに振る舞う事自体が、虚構と現実が溶け合うことでそのまま演技になるはず。ミッジは役作りのために自己を設定にすり合わせるけれど劇中劇のトーンに合わせた感情表現をする。カット版の妻はそういった調整をせずに演技に臨んだようだった。この部分の表情のアップをスクリーンで対比できて本当に良かったと思う。現実で得られなかった赦しと諦めを与えてくれたのは、存在しなかった夢での交感。でもそれで前に進む事ができる。...目覚めたければ眠れってみんな言ってたし。

沈痛で抑制的な感情表現は消えて、むき出しの情感のようなものが顔をもたげる。それは劇中劇という舞台設定という客席から霞がかった先で展開されているレイヤーを超えて、オーギーの救いを求める本心とでも言うものが表現されていた。でもそれは劇中劇の中でも夢の中という別のレイヤーでの出来事であり、DVDならディレクターカット版や映像特典に収録されるようなカットされた部分で、何なら正式に演技したのではなく休憩場所で偶然であった2人が読み合わせだった。そういったいくつもの層の混乱が普段監督の作品で出会うことが珍しい情景がどこか作品創り自体も俯瞰しているように思えて、見ているこちらも巻き込んだ楽しさがあったように思う。

….ちょっと夢を見てみたい気になれた、そう言った満たされた気分は素敵。
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