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哀れなるものたちのAnima48のレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.5
休日の朝。塩鮭やアジの開きとご飯に味噌汁・納豆と一緒に迎える朝の日差しは幸せにしてくれた、少し古い朝食のスタイルだけれど。英国ではキッパー、ニシンの燻製が今でも朝食に上ることがあるとか。しっかり焼いたトーストの上にバターを塗りキッパーを載せるらしい。ビクトリア朝の労働者階級では晩のご馳走にもなっていたキッパーは素敵な皿に載せられてベラの朝食に姿を現す、当時は上流階級にしか見られなかった朝食だと語る人もいる。

造形美というのだろうか?フランケン博士に作られたフランケン娘が不思議の国のアリスのように、マッドサイエンティストのゴシック調の研究室から、ブリューゲルとアールヌーボの間の落とし子のようなリスボンやパリの街、売春宿、豪華客船を訪れる様子は絵本“アライバル”をも思わせるし、モンティパイソンのアニメにも見える。周りにはブルドッグの顔をしたアヒル、馬の頭を持つ馬車といったボスや石燕が描いたようなクリーチャーが蠢いている。

とは言え、この映画の魅力のかなりの部分をエマストーンが担っている、演じる上で勇気が必要だったんじゃないだろうか?貌の力、特に濃い眉、黒く長い髪の御蔭で受ける印象が以前とかなり違って見えた。裸体をセクシャルに曝け出すシーンが多くて、体と頭がアンバランスな状態を予想もつかない状況で見せてくれる。お陰で”過去のない女”=ベラの旅路に客席側も自分の常識や倫理を棚上げして付き合う事が出来た。

開始後暫く寒々しい研究室で幼い?ベラが過ごす様子はモノトーンで描かれ、魚眼レンズやのぞき穴を駆使して、ゴッドウィンとベラ、マックスの3人の生活を見せてくれる。ゴッドウィンの愛は創造主が被創造物に対して抱く愛、マックスの愛はビクトリア朝のモラルに則った家庭教師のような愛。どちらもベラを教化•管理しようとする想いが根底にありベラは幸せを2人の管理下でのみ与えられる。無償の愛というのはある意味相手の世界観・ことわりの中で生き続けるときにのみ得られるのかもしれない。彼女が足の間の素敵な場所に触れることでいつでも幸せを得られると気づくまで、色褪せた濃密な空間で隠れ里のように生活は続く。だけどベラが絶頂に達し性的興奮と自由への欲求を自覚してダンカンが腰を振り始めると画面はモノクロからカラーに変わる。

“世界を見たい”その好奇心を利用して外界に誘い、歓び-主に性的な-を教えるダンカン。リスボンで2人は食べ、飲み、セックスに溺れる。特にベラは周囲のモラルや習慣などわからない、好きな時・場所で好きな相手とセックスをする。食べたい物を食べて飲みたい物を飲み思ったことを口にする。精神的に何もインストールされていない状態で家を離れたベラには自分が女性であるという自我も希薄に見えて、ベラが快楽の深みにはまれば嵌るほどベラはダンカンの意のままにならなくなって行く。目まぐるしく変わりあざやかなシーンではあるけれど、肉体面のみ大人で精神は子供な女性を相手に成人男子が性に耽るシーンは見ていて神経を逆なでされる心地になる、どこか邪なファンタジーさを感じた。

当初、言語が不自由で生理的欲求に振り回され構わず用を足し、嫌なことがあると癇癪を起こしていたベラ、船上で彼女は本を読み友人を作り思いを言語化して会話を交わし、食べ・眠り・抱き抱かれる以外の喜びを知るようになる。これまで瞬間毎に快楽を追求することに集中してきたベラは欲求の矛先を快楽から知識に変更する事で、学習効果は一次関数的な物から放物線を描くように変わりアレクサンドロスで苦しみや悲しみの存在を知る。それは社会制度に起因するもので、その残酷な巨大さの前に個人は無力だ。経緯はどうあれ上流階級のなかで無垢に生きてきたベラはその現実にたじろぐ。

その果てに行き着いたパリで糧を得るために、ベラはセックスワーカーになる。モルモットか高等遊民の経験しかないベラにとって即可能で効率の良い唯一の稼ぎ方だった。仕事と割り切るベラは負い目を感じていない。そもそもベラにとって性欲は三大欲求の一つでしかなくそれを追い求める事への後ろめたさはないので悲痛さもなく好奇心のままにこのビジネスに臨む。娼館を運営するマダムはそんなベラを援助したいのか、搾取したいのか、決めかねているように見えた。そしてダンカンは、自分の心を奪ったベラと、奪われた自分、どちらにストレスをぶつければいいか解らず怒りと悲しみをため込む。

金銭を介した客と売り手という関係では、男たちは良識等を捨て去り捻れた欲求をぶつけてくる、まるで反抗を許さない弱者をいたぶるように。それはいろんな趣味のセックスカタログで、ベラはあらゆる負の感情を生まれたままの姿で受け入れるそもそもベラにとってセックスは、幸せになるための素敵なことでそこに至るまでの駆け引き、媚びなんて必要ない、ただしたい相手に声をかけるだけというシンプルな行為。その結果相手が疲れたらそういうものだと受け止めて性的強さなんて求めずからっとしている。なのに世間は男達は自分たちの作った規範を押し付けてくる。挙げ句の果てに彼女の幸せの発見のきっかけ、エネルギーの源でもある陰核を切除しようと企む、あの男、取っ払った脳みそをヤギにつけてやればいいのに。旅路半ばでベラは同性との同衾にたどり着き社会主義に触れる。トワネットとの絆は一連の旅出の一つの到達点だったのかもしれない。

ゴッドウィンとベラは似通ってしまっている。ゴッドウインは体を、ベラは頭に手を加えられ、保護者に管理・観察されて成長していく。ゴッドウインは理化学的に、ベラは性的に放埓にふるまい、どちらも愛情に満ちているが倫理は備えていない生涯を上流階級として送ることになる。世代に渡るその奇妙な相似性は捻じれて意地悪な形でもう一度再生産されてしまう。そこには女性の解放という意味合いを越えて、どこまで好奇心と自由を求めていけるか悪く言えばタガが外れた自由を社会の中で追及できるか?という破壊、挑戦の意図も感じる。男性本位の閉塞した社会から学び成長し続ける事で、自由・知性を獲得したベラだが、それは男性優位への挑戦を越えたただひたすら自立を求め続けた歩みに思える。それでもベラはあの上流階級の邸宅に滞在し続ける。理想や自立を目指していても経済がないと実現はできないということだろうか?

何処かで我々は他者を自分の価値観・世界観の中に押し入れて理解しようとする。その理解の範疇を越えたものには不安や不満を抱え、時には自分の価値観を押し付けてしまう。それが管理や支配の正体なのかもしれない。特に相手が自分より愚かだったり弱かったりと劣位と思われる場合、私たちは急に残酷な本音を剥き出したり、敬意を払わなかったりするし、場合によっては自分の価値観に馴染むよう教化•強制しようとする。それを教育や愛情と思い込む都合の良い誤解の上に成り立っているのが社会なのかもしれない。塩鮭が並ぶ朝食に郷愁や幸せを感じてしまうような感覚、それを普遍的と捉えてしまうような過ちから抜け出すことができない。そして一方的にみくびった相手が自分よりも輝き始めたり、手を離れていくと慌て始めたり、嫉妬したりする。社会で落ち着いてしまった私たちはそんな哀れな生き方を送る事しかできない。

ベラはまだ学び続けるだろう、まだ旅の途中かもしれない。朝食にキッパーを食べる生活を続けるのだろうか?そこからも飛び出すのだろうか?
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