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TAR/ターのAnima48のレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.5
何かが上手くいく。貴方しか出来ないとか言われるってある種快感だったりする。それに取り憑かれて周りの人が自分の言葉に左右され始めた時にはもう下り坂が始まってるかも?しがみ付く前に手放さないとね。

対談や講義、打合せ等楽団外の人間への発信が続く前半の30分程で表向きのターの人生観・職業観・音楽観を紹介してくれる、経歴とか。言ってみれば、完璧な指揮者ターを描写する上での参考文献みたいなところがあって、まさに非の打ち所がない、プロの指揮者としてはだけど。それは彼女が自分のブランド、つまり自分のポートフォリオを構想し、スタイリングし、拡散することに毎秒毎に成功しているということ。ケイトブランシェットは美しく、堂々として指揮棒でリズムを刻む様子にはひれ伏してしまうし、場の空気を支配し、論破する。そこに気難しさとオフレコの際の気安さも同居させてしまって本当にターという指揮者が実在するんじゃないかとさえ思い始める。そんな彼女に圧倒されてしまう。

常に無機質で抑制された空間、曇った空、撃ちっぱなしの壁の広がった部屋。そこで繰り広げられるのはレコード会社の会議、楽団応募者へのオーディション、学院での授業、奏者たちの些細な嫉妬とかオーケストラとのリハーサルで、演奏する上での指示を細かく奏者たちに指示する描写はドキュメンタリー映画を見ているよう、ターが指揮者として機能するメカニズムは完璧にターによって管理されて激しいけれど秩序立って見えるし、正直クラッシック音楽に暗い私にもしっかりとこの業界について教えてくれて嬉しい。

開始後すぐにエンドロールが始まり、画面上で起こることは、ある部分は緻密に、でも幻想も含めて描かれ、画面上にない事柄や告発(それは過去に起こったことや重要なことも含めて)は、しっかりとは姿を見せない。それで通常の映画とは違う。こちらが困惑する様子まであえて計算づくのようだ。音楽映画・スリラーなど様々な側面を持つ映画、特定の立場を務める人間に不可避の心の暗い部分をまるで隣に座っているかのように見せてくれる。権力者の緻密な人物研究記録のような映画でもあって、どこか彼女の監視カメラを眺め続けている気にもなる。

女性の成功が難しいクラッシックの世界で、頂点を極めたターは過去の男性マエストロがジャケットを飾るアルバム達を床に並べて足で選んでいく、踏みにじりはしないけれど。それは男性世界で神の座を掴んだ女性の姿で、先人の女性指揮者達を讃えつつも自分の成功をジェンダーの文脈で語られたくはない様子。

作品と私生活を分けて評価をするという立場をとるターは、少数派のターが上り詰めるためには女性の同性愛者という立場を作品に滲ませることは出来ず男性のように振る舞う事が必要だった。養女を守る時の父親的な立場もむしろそれを楽しんでいるようにも見える。逆にそれが出来たから上り詰めたわけで成功への論理装置のようにも思えた。

だけど私生活と仕事とを切り離せずに好みの女性で周囲を固め、時には依存し、新たな生贄を求める。そして意に沿わない者を攻撃し、追放してしまう。こんな男性によくあるハラスメントをレズビアンのローモデルにもなり得た人物が行うことで、性差に伴う権力格差など従来ありがちな展開から解放されて栄光と転落の次第をしっかり見ることができた、彼女というよりは権力を成立させる条件をみせてくれたようなそんな気分。

カリスマ、この人の代わりになる人が見つからない。そういわれることはとても甘美だし、称賛に酔う事は人生の中で至福の時だろうね。ただそれは中毒になる怖さがあって、称賛なしの人生を送る怖さは、地位への固執につながってしまう。カリスマがエゴイストになりさらにはトラブルメーカーに堕ちていく様が描かれていた。

責任感と傲慢は紙一重。何かのチームを率いる時リーダーは秩序や産み出す物の質を維持するためメンバーを叱咤激励する、そして将来に向けて青写真を描いて導かなくてはいけない。その中で適格でない者には教育や助言を行う。日々が理想と現状のギャップを見続けチームを向上させなくてはいけない、“自分がやらなきゃ“って。でもそこで自分の存在価値の為にとか、周りがいう事を聞いてくれないとか思い始めるとやっぱり責任感が傲慢に映るのかもしれない。

但し、ターが放つ言葉は正論が多く無礼な言葉はあまりなかったし、キチンと手順を踏んでアクション事に周囲の同意を得て動いている。他の映画であればもっとストレートで威圧的な言い回しが使われていたようにも思う。多分ター自身もそれほど権力を振りかざしているとは思わずひょっとして、みんなが気付いていない自覚していない事柄も責任者としてあえて先回りして口にしていたのかもしれない。本人からすると表だって後ろめたい事はしていない。ただ、地位についている者、権力者からの言葉は言外の力を帯びてしまう。それがカリスマの力学なのかもしれない。その権力の魔力がある限りターの周囲に人は集う。発言に対して周りがその意を汲んで動いてくれる、その先には意図しない、自覚も出来ない全能感が産まれても不思議じゃない。男性社会の中での女性、同性愛者という少数派であったとしてもその誘惑や魔力からは逃れられない。意に沿う者で身を固めていたター、自分への崇拝・畏敬・愛情を利用し、特に若い女性には便宜を図っていたが当然それらはポジションや庇護を求めていたものばかりでそういった者達の甘言や遠慮や服従に惑わされ、本当の支えにも逃げられちゃったみたい。

けれどそういった利益の供与やコントロールの有無を画面に伝えるのはターを何重にも取り囲んでいた観察者で、それは匿名のウィキペディア編集者やライブ配信者達や被害者の身内。限りなく黒に近いグレーだけどそういった不祥事があったかもしれない様子や手がかりしか伺えない。記憶のフラッシュバックが描かれる訳でもなく、モノローグによる説明もない為ターが知っていることも画面上に表現されない。説明されるべき所をあえて隠すことで、権力の構造解析のドキュメント風の作品かにわかに複雑で謎めいたスリラー風味を帯びてきて、何度も見たくなるようになってしまう。

そんな曖昧な状態で見ているこちらもターに対する態度を決めかねてしまう。私たちは欠落した事実を想像し、ターがしでかした事を想定する事になる。それはxなどに無責任に書き込みをしてしまう事によく似ている。そう言ったターにとって向かい風な状況が客席の間でも広がっていく。そして告発されたこと自体ほぼ不祥事があったとみなされる今日の#MeTooの社会ではターの中で抑圧された何かが異音という形で苦しめ始める。あれほど完璧に見えた世界が追い詰められる始めると寒々しく映りあの異音は押し殺していたターの良心や目を背けていた自らの被害者の叫びなのかもしれない。

最終的には音楽で立ち直る。彼女が激怒した時は、指揮者を下ろされた時ではなくて自分の作品、譜面を元に他人が5番を指揮した時だった。立場や権力よりも音楽を最後は大切にしていた。幼い日に見た演奏とメッセージで自分を見つめる。そしてゲーム音楽はハイカルチャーではないけれど、クラッシックよりも熱狂的な観客を得る。権力を失い失墜後のターは冷たく抑制された場を離れ、湿った南方の地で生命力や熱狂を得ることができた、指揮棒は失くさず手に握り続けている。彼女の再生を祈りたいって本当に思う。

•••本来ゲームをやりこむタイプには見えないけれどね,彼女。そんな彼女が世界観、作者の意図を理解する為にゲームをしっかりやっているだろう所を想像すると微笑ましい。ゲームに目覚めたりして?
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