ラウぺ

デューン 砂の惑星PART2のラウぺのレビュー・感想・評価

デューン 砂の惑星PART2(2024年製作の映画)
4.3
公開の1か月くらい前にIMAXでPART2の特典映像付きPART1を再鑑賞しました。
最初の公開時は普通の劇場だったので、細部を微妙に忘れている頃合いで圧倒的没入感を体験できました。
ティモシー・シャラメがその挨拶の中で、PART2の最良の予習はPART1をもう一回観ることだ、と言っていましたが、完全な続編として地続きなPART2は、PART1を観ないで本作から観るのは論外としても、PART1の内容や雰囲気を細部まで知っていないと十分楽しめないと思います。

全編に漂う神々しいまでの外連味や神話的世界観はそのままに、アラキスでのポールとフレメン対ハルコンネン一族との戦いをメインに展開していきますが、物語の主軸は幾世代ものあいだベネ・ゲセリットが人々に広めてきた救世主の復活(ポール=クイサッツ・ハデラック)をポール自身とフレメンが受け入れるかどうか、にあります。
前半部分、というかクライマックスまでこの部分のウェイトが占める割合は非常に高くて、物語の進行が想像していた以上に遅いイメージが付きまといますが、だからといって決して弛緩した印象はありません。
良く練られたタイミングで戦闘場面が挿入され、その躍動感と映像的な見どころはこの映画が(ある意味で当然ながら)SFアクション映画としてのポジションに立脚していることを思い出させてくれるのです。

ベネ・ゲセリットの目的は究極的には組織の思惑通りに世界をコントロールできるかにあり、そのためには正邪の別なく目的に利する側に協力し、単なる宗教団体とは明らかに違うのですが、現世での宗教に対する一種のアンチテーゼとしてその面が強調されているようにも感じられます。
宗教による民心の縛りが希薄な日本人にはピンとこないところですが、西欧や中東などではこのテーマは大いに影響のある部分ではないかと思われるのです。
ベネ・ゲセリットの中でもガイウス・ヘレン・モヒアムとポールの母であるレディ・ジェシカの思惑は異なり、ポールを救世主としたいレディ・ジェシカの思惑をガイウス・ヘレン・モヒアムは快く思っていない。
ポール自身は自らが救世主となることを拒否し続けているが、幾度も見る未来の断片により次第に受け入れるようになっていく。
ポールがこれを受け入れるということは、ポール自身の変貌の兆しでもあり、物語の方向性を決定づける極めて重要な要素となっているのです。

そうしたポールに惹かれ、微妙な変化を見届ける重要なキャラクターとしてチャニの存在は大きく、物語的には本作の準主役といってよい扱い。
チャニは純粋にポールに対する愛情からポールがクイサッツ・ハデラックとなってアラキスのほかに宇宙を支配することを望んでおらず、ハルコンネンとの戦いも、あくまでアラキスを解放するための戦いという認識を持っている。
レディ・ジェシカがフレメンの教母となり、フレメンの多くがポールをクイサッツ・ハデラックとなることを認めるようになってからも、チャニは拒否し続ける。
本作において、チャニの存在はこの前近代的家父長制の蔓延る物語世界に対するスクリーンのこちら側の価値観を代弁しているようにさえ見える。
ベネ・ゲセリットが暗躍しているとはいえ、基本的に男尊女卑の世界であり、“妻”にあたる女性でも妾としての地位に甘んじて男の支配を受け入れる女性像は神話的世界の中だけで存立する状況といえます。
チャニの苦悩はこの物語に大きな影を残して、アトレイデスとハルコンネンの戦いに決着がついても、爽快感とは程遠い後味が残るのです。
これは監督がサーガとしての物語を重視し、この物語がPART2だけでは終わらないことを、強く意識しているからでもあるように思われます。

PART3が作られるのかどうかは現時点では有意な情報はありませんが、この明らかに大きな成功を収めたプロジェクトとしては、その可能性は非常に高いのではないかという気がします。
その後はポールが単なる物語の主人公として“青臭い”理想家肌の人物像から“苦悩する支配者”へとシフトしていくことが明らかなので、物語は重苦しくハッピーエンドとは言い難いものとなっていくことになる。
人の支配の歴史としてポールも歴史の構成要素に過ぎず、それが永続的に次の世代に移り変わっていくサーガとしては必然の成り行きですが、この先の物語を続けていくことは如何にドゥニ・ヴィルヌーヴといえども、非常な困難を伴うのではないか、という気がするのです。
ラウぺ

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