ラウぺ

ピアノ・レッスン 4Kデジタルリマスターのラウぺのレビュー・感想・評価

4.2
19世紀の半ば(日本語の字幕のみ1852年と表示される)、6歳で言葉を話すのをやめたというエイダ(ホリー・ハンター)は、そのままでは息をするのを止めかねないという父の主導で、ニュージーランドに住むスチュアート(サム・ニール)のもとに嫁ぐことになった。娘のフローラ(アンナ・パキン 若い!)を伴ってニュージーランドの海岸に降り立ったエイダだったが、大切に持ってきたピアノは海岸に置き去りにされてしまう。現地でマオリ族との通訳をしているべインズ(ハーヴェイ・カイテル)に頼み込んで海岸のピアノを弾きに行くが、べインズはピアノをスチュアートから買い取り、エイダにレッスンをしてくれ、と依頼する・・・

『パワー・オブ・ザ・ドッグ』で硬派な演出の中に怜悧な感性の滲む作風に惚れ込んでしまいましたが、今回の4Kリマスターの公開で初めて『ピアノ・レッスン』を鑑賞。
ある程度予想していたとはいえ、全面から放射される映画の“強さ”に圧倒されてしまいました。
登場人物はみな意思の強い、安易に妥協をしなそうな尖った人物ばかりで、最初からそうしたイメージは強いのですが、実際その予想の通りに物語は進行する。
自ら話すのをやめた、というエイダは単なる失語症というのではなくて、内に秘めた意思の強さというか、強烈な信念の持主であり、言葉なぞまったく必要としない剛の者といった印象。
娘のフローラもエイダの言葉を代弁しながら、物怖じしない芯の強さは母親譲りなのかと思わせます。

エイダの夫であるスチュアートもエイダが声を出さないことには理解を示すものの、妻や家族といったもののイメージが明確で、それに反することは断固容認できない、といったタイプ。
エイダにとってピアノがどれほど大切か、といったところには殆ど関心を示さずに、ピアノを海に置き去りにしたうえ、土地と引き換えにべインズにピアノを譲ってしまう。
粗暴なべインズは西欧人としての民族意識が薄らぎ、むしろマオリ族と一体化したかのような生活を送るが、エイダに惹かれ、邪な理由からピアノのレッスンをエイダに強要する。
ところが、エイダはべインズのレッスンに渋々承諾するものの、次第に惹かれるようになる。
このあたりの淡々としながらも互いの関係に変化が兆す描写の繊細さが女性監督らしい(安直にこういう表現をするのは慎重であるべきですが、男性の監督ではこうはいかないと思う)ところです。

不器用ながらもエイダを妻として迎え、その愛情を欲するスチュアートの立場を考えると、粗暴で西欧的洗練さから敢えて距離を置くべインズの方に惹かれるエイダのまさにNTRな展開が、なんだかスチュアートが可哀そうに見えてしまうのですが、恋愛の対象は理屈を超越したところにあるのが人の世の常というものかと思います。
身悶えするほどに苦悩するスチュアート。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』でもキルスティン・ダンストに翻弄されるジェシー・プレスモンが似たような境遇でしたが、このあたりの容赦ない描写も、なんだかオトコ共に媚びない監督の男性観が滲むような気もしないでもない。

エイダとべインズの間に親密さが増大するうちに子どもながらフローラがそれを感知するようになる。
フローラはエイダと強い絆で結ばれているらしいことが窺われますが、その関係はべインズとの仲が親密になるにつれて微妙な変化が訪れる。
フローラにはエイダに女の素性が見えるようになることで、それに対する反発らしきものが現れる。
ここもまた、従属的なだけではない、一人の女としてのフローラの姿が浮かび上がってきます。
アンナ・パキンのこの若さでアカデミー賞助演女優賞受賞というのも驚きですが、それはやはり当然だと思いました。

べインズとの関係が公になり、スチュアートを含めた3人の愛憎劇はより深刻さを増していくのですが、衝撃的な展開の末に迎えるこの物語の結末は、従属的な立場に甘んじる女性の旧来の姿を打ち破り、男の束縛に甘んじない新しい女性像を志向する生き方を提示している、といえるのだと思います。

なんというか、普通の、モテ力の足りないそこらのおっさん的には、この強すぎる物語の放射するパワーに圧倒されて劇場から放り出されてしまうのでした。
ラウぺ

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