ラウぺ

オッペンハイマーのラウぺのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.4
昨年夏の世界公開に遅れること8か月、ようやく日本公開となった『オッペンハイマー』
どうしてもIMAXで観たくて、ようやく巡ってきたチャンスに往復100km離れた劇場まで観に行ってきました。

原爆の開発者である原子力・理論物理学者のロバート・オッペンハイマーの半生を描いた映画、という触れ込みながら、そこはクリストファー・ノーラン、一筋縄な物語を用意していません。
映画はキャリア晩年のオッペンハイマーが原子力委員会の聴聞会に呼ばれ、過去の言動について証言させられる場面(の一部)から始まる。
この聴聞がなんのために行われ、何が問題とされているのか、当初はこの部分だけからはまったく分からないのと、それに並行してオッペンハイマーの過去の一断面が目まぐるしくコラージュされていくので、観ている方はこの表現がずっと続くのか?と、まるで眩暈のような混乱を来してきます。
中盤辺りに行くと、このスタイルはやや落ち着きますが、とはいえ基本的にこの各場面が切り刻まれ、目まぐるしく過去と現在、別の登場人物の関わる場面がシャッフルされて描かれるスタイルが続くので、観ている方は物語の流れについていくのに大変な集中力を必要とします。

登場人物多数で、会話に出て来る人名や固有名詞についてこれといった分かりやすい説明セリフがつくわけではないので、これまた話に着いていくのは大変ですし、相当の予備知識がないと、話の肝心なところは良く分らない。
いや、これは良く分る必要はなくて、さまざまな関係者や出来事との関わりにおいて、オッペンハイマーが原爆を開発するに至る物語をリアルに見せたいという意図によるものではないか、という気がします。
初見では誰のなんのことだか分からない部分も、後から調べることで 補完も可能であり、大まかでも会話の内容を把握することが出来れば、物語の本筋から逸脱することはない、ともいえます。

前半の、英国留学当時などの若い頃の描写は特に細切れで年代の分かる描写もほぼないので、マシンガントークの連続に、登場人物多数のカオスの中からオッペンハイマーの若い頃の様子を窺い知るのみですが、そのうち1938年末にドイツで核分裂が発見されたという報せが届き、そこでようやく年代の焦点が定まってきます。
1939年に第二次大戦がはじまると、核開発とナチスの結びつきが切迫した脅威として見做されるようになっていくさまから、ロスアラモスの研究所設立への動きへと進み、ようやくこの慌ただしい映画のテンポにも慣れて、物語の大きな流れ(の一部)が見えてくるのです。
ドイツに核開発で先行されてはならない、という命題は、アメリカが原爆開発に行き着いた原動力として、肯定せざるを得ない部分ですが、これがドイツの敗戦という形で目的を失ったところでも中止という選択肢はなく、それを日本の敗戦を促すために利用する、という流れは、どこか引っ掛かりが残る場面ではあります。
兵器であれなんであれ、何らかの技術開発のプロジェクトが動き出してしまうと、それを中止や方向転換することがそれに関わった人物の数や投入された資源のボリュームが多ければ多いほど、なかなか困難なことだろうと思います。

核分裂の連鎖反応が起きてそれが空気の燃焼に繋がり、無限に拡大する可能性についての言及がありますが、それは「ゼロではない」ということで開発が継続されることになりますが、それを危惧したオッペンハイマーは連鎖反応の数式を持ってアインシュタインのところに見せに行く。
アインシュタインは曖昧さや冗長性を容認する量子力学に否定的で(「神はサイコロを振らない」)、オッペンハイマーや原子力委員会のルイス・ストローズとは距離を置いており、数式を見せられてもこれは君たちの仕事だ、と返してしまう。
今でこそ連鎖反応が無限に拡大することはないことは経験的に一般にも認知されていますが、最初の核爆発の前にこれを許容範囲内と断定できるか否かは当時の科学者的には非常に重要な問題であっただろうと思います。
「ゼロではない」として実行を中止あるいは中断することを避けるのは、プロジェクトを止めることの難しさに通底する部分といえるでしょう。

そうしてマンハッタン計画はついに最初の核実験であるトリニティ実験にたどりつく。
映画はそれまでの細切れの目まぐるしい描写から普通の映画的編集でじっくり実験の模様を描いていきます。
オッペンハイマーの個人記に軸足を置きながら、やはりその生涯と業績のハイライトはトリニティ実験の成功にある。
ポツダム会談の前日に設定するという極めて政治的な実験の日時が悪天候という天然の障害で危機に瀕するところや、関係者の極限に達した緊張、実際の爆発の規模があくまで推定によることで防護の手段も手探りな様子など、ここはやはり本作の映画的ハイライトといえます。
人知を超越した極大パワーの解放を目の当たりにして、それ以前と以後では世界の様相が一変してしまうという事実に向き合う描写は、この映画が決して原爆開発が科学技術の勝利として礼賛するものでないことを明確に描いていきます。
スタッフたちの足踏みと歓喜の拍手の中でオッペンハイマーに見える世界がどれほどその情景と乖離しているか、実験の直後に運び出されるリトルボーイとファットマンの梱包を見送ってから、そこで生み出された原爆の用途について、ロスアラモスの開発者にはなんの関わりもない、という冷厳な事実を突き付けられて、映画は大きく方向性を変える。
ここで広島と長崎の惨状を描写する場面がないことが物議を醸しているようですが、この極めて理性的に描き出す内容を整理して余分なものを極限までそぎ落とす手法の中で、その描写の入る余地はやはりないだろうと充分納得できるものです。
全体を通して観た人ならば、監督の意図するところはよく理解できるものと思います。
そのことによってこの映画が、広島・長崎の重みを矮小化するのか、といえば、それは明確にNO であり、被害の描写はなくとも原爆がどれほど危うく、危険なものであるかは、枚挙に暇がないほどに充分描写されていますし、その後のオッペンハイマーの苦悩と人生の転換を描く後半の物語そのものが、この映画の意図するところは明らかでしょう。

それまで描写を細切れにし、セリフでさえ物語の意図するところに不要な部分以外は会話が成り立たないほどまでに切り刻まれて描写されてきたことが、物語全体の流れの中で何を基本に据えていたのかが、ここにきてようやくおぼろげな姿を現してきます。
ややネタバレ的ではありますが、この物語の中でオッペンハイマーに次ぐ準主役、物語を動かすメインプレイヤーといえる存在が、実はルイス・ストローズであることがはっきりする。
映画の比較的早いところで映像がカラーから唐突にモノクロになったりするのですが、当初はこれがどういう意図なのか、マシンガントークの連続と目まぐるしい展開に追いつくのがやっとで映画の後半になるまで理解できない。
同じ場面であっても次に出て来るときにはモノクロだったりする。
物語の後半で、オッペンハイマーが国家への忠誠心と共産主義への傾倒を問われた聴聞会が開かれ、その成り行きがメインとなってくる頃、モノクロの場面はルイス・ストローズを主軸に展開していることに気づくのです。
それまで意図を明確に分かる形でカラーとモノクロを使い分けていたように見えなかったものが、急にそれが分かりやすい形で描き分けられる。
監督の意図としては、ここでそれに気づいてほしい、というタイミングでそれが行われているように見える。
これが明らかになるときの驚きと一種の興奮は、この作品がクリストファー・ノーランでなければ成し得ない、極めて独創的でありながら綿密な計算のうえで成り立つ物語の構成の醍醐味といえるところでしょう。
まさか、こんな実在の人物の伝記映画で、ここまで革新的な筋書きが可能なのか!という驚き。
頭の中で何かが弾けるような感覚に陥ります。
おそらく、はじめからもう一回見直せば、その意図するところはより明確に把握できるものと思います。

物語の後半で赤狩りが渦巻くアメリカの政治情勢の中で、オッペンハイマーの立つ場所は最早存在していないこと、水爆開発に舵を切ることが、より強力なものへと核の連鎖が不可避的に始まっていることの危うさがどれほど空しいことなのか、それを伝える物語の大きなメッセージ性の高さが、この作品が単なるアクロバティックな物語展開のみで評価されているわけではないことを大いに納得することができるのでした。

アカデミー賞作品賞受賞はむべなるかな、と思います。
ラウぺ

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