ラウぺ

エル・スールのラウぺのレビュー・感想・評価

エル・スール(1982年製作の映画)
4.1
スペイン北部のどこか。一人娘のエストレーリャはある朝目覚めると、ベッドに父の使っていた振り子があるのを発見する。父は夜明け前に家を出たらしい。父がもう戻らないと直感したエストレーリャは父との思い出を回想する・・・

ビクトル・エリセ監督第2作、1983年製作。
この作品も『瞳をとじて』の上映と関連した再上映の一環。

登場人物はごく少なく、有意な登場人物はエストレーリャの父アグスティンと母フリア、乳母と“南”に住んでいるアグスティンの母といったところ。
そのほかはモブキャラで、エストレーリャに恋している男の子は画面に姿を現さない。
ここでの物語の中心はあくまでエストレーリャと父アグスティンの関係(のみ)で、それ以外は物語の進行上の必要から登場しているだけのようにすら見える。

医者をしているアグスティンは振り子を使って一種のダウジングのようなこともしていて、父にとって振り子は大事な商売道具ということになる。
ごくミニマルな物語の中でエストレーリャとアグスティンの関係のあいだにある重要なテーマとは、母も知らないアグスティンの密かな恋人の存在であることが次第に明らかになっていきます。
例によってこの作品も多くを語らず、与えられる情報は徐々に、僅かずつではあるのですが、『ミツバチのささやき』と違って本作ではエストレーリャの回想のなかで心情的な部分がモノローグで語られ、その点に関しては非常に明確にエストレーリャの心理が伝わるようになっています。
父と娘の関係が、ごく小さかった子どものころから、思春期を迎え、父の想い人の存在を明確に意識するようになってからの心情が語られるごとに、父の中にある一種の葛藤らしきものが次第に見えるようになっていきます。
他の誰もそのことを知らない、という状況はエストレーリャの中で父と自分(だけ)を繋ぐ重要な要素であり、この映画の最も重要な物語の核心でもある。
冒頭の場面の、父が家から居なくなった後にどのようなことが起きるのかは物語の後半で明らかになるのですが、二人の関係がそれに及ぼした影響については観る者があれこれ想像を巡らすよりほかない。

物語の舞台は一貫してスペイン北部のどこかにあるエストレーリャの家“かもめ荘”に留まるのですが、アグスティンの母(=エストレーリャの祖母)は南からやってくることや、アグスティンの想い人は南にいるらしいことなど、この物語の全体を通して映画にまったく登場しない“南” (El sur=エル・スール)にこそ、登場人物たちの心を誘引するものがあるということが強く示唆されるのでした。

これはやはり内戦でフランコ側の本拠である北と人民戦線の拠点のあった南というスペイン近代史上の軛とでもいうべき内戦のメタファーを否応なく喚起するものです。
磁石が引き寄せられるごとく、登場人物たちは南を向き、北での生活に捉われている。
この物語は本来3時間近いボリュームで計画され、実際には作られなかった後半の展開はエストレーリャが南に行く物語が描かれる予定だったとのこと。
後半がバッサリカットされてしまった理由は資金的な問題からプロデューサーが後半の撮影を許可しなかったためらしいのですが、実際に今の状態で終わっている現在の完成版を観るに、後半の展開を描かないことでむしろエストレーリャとアグスティンの関係がシンプルで明確な姿を現し、ひとつの物語として充分に完結しているように見えるのです。
それに続いて後半が実際に作られた場合は、おそらく二人の関係に多層な意味づけが行わたか、まったく別の様相を呈していたかもしれず、それはそれで興味深いのですが、現行版の全体を流れるトーンの統一感やミニマムさもまた一つの魅力であることを考えると、これはこのままで充分なのではないか、という気がするのでした。

追記
観終わって改めていろいろ調べると、監督はやはり映画が本来の姿でなくなったことに忸怩たる想いを抱いているようです。
本来の姿を知るクリエイターとしては、やはり希望通りに完成させたかったと思うのは当然のことでしょうし、鑑賞者としてこれはこれで良い、というのはやはり一方的な捉え方と言わざるを得ない。
監督の思い描いた姿がどのようなものだったかは、原作のプロットを知れば大凡の想像はつくのではないかと思われ、これはやはり原作を読んでみる必要があるのだと思いました。
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