真田ピロシキ

赤毛のアンの真田ピロシキのレビュー・感想・評価

赤毛のアン(1979年製作のアニメ)
5.0
15年以上前に見て以来。近年現代風アレンジを施したNetflixの『アンという名の少女』に大いに感激し、そこから原作小説も新訳版を続編まで読み進めていてすっかりアン愛好家となっての再鑑賞。

いやー若い頃以上に面白い。まずこの物語は一般的には児童文学と分類されているが、実際どの媒体でも触れてみると子供には難しい。大人こそが本質を堪能できる内容。アン以上にマシューとマリラのカスバート兄妹を始めとした大人がアンに抱く心情を強く描かれている。ただの働き手を求めてたところに手違いでやって来たガリガリでそばかすだらけの赤毛の少女。実用性であればいらない子。だがこの子はとにかくよく喋って面白い。温和なマシューは元より、厳しいマリラですら口には出さないものの面白がる。素晴らしいのはそんなアンの長ーいおしゃべりを省略せずにきっちり聞かせてくれることで、特に馬車で語るアンの生い立ちには丸々1話を費やして、それを聞いて物思いに耽るマリラと視聴者は同じ時間と思いを共有する。これが生み出す物語の強度。それでいて多弁なアンが歓びの白い道に感激のあまり沈黙する間も省かない。贅沢な時間の使い方をされている。

大人向けなのは原作のキリスト教文学側面のみならず、カスバート家とリンド夫人で異なる支持政党の違いのような話も再現していることで、一見どうでもいい情報に思えるが当時は支持政党を変えるなんて信仰同様滅多にないことで、後半マシューがアンの学業のために支持政党を変えることを考えるとシーンの意味がより大きい。マシューは素晴らしい男性だ。対人コミュニケーションが苦手で特に若い女性がダメな世間からは軽んじられている独身老人であるが、ミニーメイの危機を聞いた時には狼狽えずアンとは別に黙って医者を呼びに行くことができて、何の血縁もない子供に見返りを求めない無償の愛を注げる人。「ワシらがあの子の助けになれるかもしれないよ」。今、自分を弱者男性とか言ってる奴らはさあ、この何百分の1でも愛を持ててるって言うの?誰にも愛されていなかった孤児に手を差し伸べたカスバート兄妹は2人もアンによって救われる。愛されるのを望む前に愛せよということを現代に示す。マリラも現実主義者で厳しい人だけど、引き取る前からアンの馬鹿げたお喋りを遮らずに聞いてあげて、自分が価値を見出さない望みでもほとんど禁止しない。アンの意思はできるだけ尊重する。だからこそアンは道の曲がり角を選ぶことに何ら後悔しなかった。

男性で言えばマシューだけでなくギルバートも良き男性性を表す。軽い一言が5年にも渡る仲違いを生んだ姿は何気ない言葉の暴力の重さがある。ギルバートが偉いのは何度謝罪を拒絶され一度は諦めようとしながらも逆ギレしたりせず、アンに対して真摯であり続けた事。「そんなこと」で済ませてはいけない。人には触れてはいけない領域とはあるのだ。ギルバートはアンに許され相応しい男になるため自分を磨き続けた。若くして本物の紳士。最終話までの50話かけてやっとロマンスの芽生えが起こる普通ならあり得ない話だが、憎き敵からライバルへと移りアンを鼓舞し続けるギルバートの存在感は並のロマンスパートナーじゃ及びはしない。『アンという名の少女』はシーズン2で和解してその後安いラブコメみたいな展開されたのがギルバート家族関係の設定変更よりも大事だと思った。それはさておきギルバートも世の男性は見習うべき。特に女性にモテたいと思ってるならせめて上辺だけでもね。

物語だけでなくアニメーションも珠玉のクオリティ。キャラクターデザインを手がけた近藤喜文の仕事が素晴らしく、記号的でない人物表現に舌を巻く。5年が経過する本作で劇的に変化するのは15歳になった時であるが、それ以前からさりげなく確かに成長したことをふと気付かされる。これも親目線なら共感するであろう。成長を見ていくのが楽しくて、実のところ割と早くに宮崎駿が抜けてからの方が面白いかもしれない。中盤頃まではたまに富野由悠季も参加しててドリームアニメ。アンが心の友であるダイアナと海岸で遊ぶだけのエピソードが白眉。物語上絶対必要な話ではない。だが波が打ち寄せ水飛沫が上がり貝殻が煌めき、穏やかな音楽でマリラやリンド夫人がアンの成長に思いを寄せるアニメーションの詩情は目を釘付けにして離さない。スタッフは若くても戦後ちょっと後の生まれが多かったからだろうか、アヴォンリーの田舎風景にも実体験に基づいた息吹を匂わされる。また実際にプリンスエドワード島までロケハンにも行ってて、今じゃ連続アニメはおろか劇場用ですらこれだけのこだわりができるとは思えない。しかも50話という長尺が可能にする余白。劇薬的な刺激が求められファストに消費される今の日本アニメ業界が失ったものを思わされる。今はスタッフを食べさせるために作られているような作品ではなく製品としてのアニメが多すぎる。現代の日本アニメは本当に豊かなのか。貧しくなったとしか思えない。