ベイビー

VORTEX ヴォルテックスのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

VORTEX ヴォルテックス(2021年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

これまでギャスパー・ノエ監督作品を多く観てきた人たちの中には、今作を観て“彼らしくない”と言う人もいれば“もの足りない”と言う人がいるかも知れません。

確かにこの物語には抑揚が見受けられず、目を惹くようなグロさや過激さは皆無といった印象です。今までの観客の度肝を抜く演出とは打って変わり、退屈とも言えるような静寂な描写で、終末に差し掛かった老夫婦の日常を繊細かつ丁寧に描き切っています。

ギャスパー・ノエ監督作品で一貫して描かれたのは“純粋”から“汚れ”への移り変わり。人は生まれた時の“無垢”な形から、時間が経つにつれ人は汚れるもの。そう言いたげにノエ監督は作品の中で人を煩悩に迷わせ、そして愛すらも汚れの一部として描いてきました。

今作ではこれまで描いてきた内容より少し趣きが変わり、人生の終末に差し掛かった老夫婦のお話でした。したがって生まれたての“無垢”な印象や性欲や愛欲を求める物語とは違い、人が生き続けた先に見る“死生観”がテーマとされています。長年連れ添った夫婦の愛着や執着や責任。そして現実的な老いや病いという死の距離感が、切実な苦悩となって老夫婦の行く末を悩ませます。

頭の中が壊れるのが先か
心臓が壊れるのが先か…

「ルクス・エルテナ 永遠の光」から使われるようになり、今ではすっかりノエ監督のトレードマークになった二画面同時進行の演出。今作ではより効果的に機能されており、夫と妻のすれ違いや寄り添うための心遣いなどが繊細に伝わってきました。そして夫が倒れ、逝ってしまった後には一画面に切り替わり、残された妻の“一人”の寂しさがより強調され、孤独とはまた別の意味で一人で居ることのどうしようもなさが伝わってきます。

老老介護というリアルで起り得る少しずつ壊れ行く日常。砂城が崩れ堕ちるように未来は崩れ、美しい思い出さえも現実から遠のいて行きます。ただ“愛”という言葉では収まり切れない二人の時間は、“どうにもならない現実”と“どうにかしなきゃいけない現実”の狭間で命の遣り繰りをし、“愛着”とか“責任”とか“執着”を全部飲み込んで、やっとの思いで寄り添い合い、もがきながら生きていけたのです。

その象徴だったのが“汚物のつまったトイレ”でした。汚水が流れず溢れそうなあの状況は“どうにもならない現実“であり、そのまま放っておくこともできない“どうにかしなきゃいけない現実“でもあります。どうにかしなきゃと汚水に手を入れてみるのですが、澱む水の中では何も掴むことができず、現状は変わらず汚水は溢れそうなまま。手を汚したところで現実は何も変わってくれないのです。

vortex:渦、渦巻き

あのトイレには、排泄物はもちろん、夫のライフワークだった映画評論の原稿や妻が飲むべきはずの大量の薬までも流し込まれて行きました。それを大袈裟に読み解けば、排泄という“死”のイメージと原稿や薬といった“生きる”糧があの便器のなかで渦巻き、抗えない現実が抱え込んだ死生観と共に今にも溢れ出そうとしています。

終末に見る“生”と“死”

僕はこの作品を観ながら、ずっと母親のことを考えていました。母は生前気丈な人で、自分の辛さを表に出すことはなかったのですが、それでも二度ほど僕の前で泣きじゃくったことがありました。

一度目は母が脳梗塞で倒れ、左半身の自由が効かなくなった時のこと、この先この不自由な身体で生きて行かなければならない恐れ、そして食事や下の世話など人に迷惑をかけてしまう申し訳なさもあったのでしょう。ある日僕が母をベッドの上で身体を起こさせスプーンを使って食事を与えていると、急に堰を切ったかのように泣き始め、ひたすら自分の不甲斐なさを責め続けていました。

そして二度目は兄が癌で逝ってしまった時でした。その頃母は施設に入っていて、兄も元気だった頃は足繁く見舞いに行っていたのですが、癌になってからみるみる身体が痩せ細って行き、その姿を母に見せると母が心配すると思い、次第に兄は移設には行かなくなりました。もちろん僕は母に兄の病状を伝え、施設に来れなくなった理由も何となく伝えたのですが、母はそれを頭の中で受け入れようとしながらも、やはり心配しただろうし、寂しかっただろうし、僕が母のもとを訪れるたびに兄の容態を聞いてきました。

そしてある日とうとう兄は逝ってしまいました。その事実を母に伝え、気持ちの整理をさせる間もなく、葬式の段取りなど施設の人たちを含めながら話していました。その時は母は寂しそうな顔をしていたものの、現実を受け止めるように話を聞いていました。しかし、施設の人が部屋から離れ僕と二人きりになると感情が爆発するように大声で泣きだし、ただしきりに「丈夫な身体に産んでやれなかった私のせいだ」と言って兄に謝っていたのです。

僕は一度目の時と同様、何も言葉を掛けられませんでした。本当に無力でした。ただひたすら母の手を強く握り、母から言葉を吐き出させることしか出来ませんでした。僕は無力ながら「そんなことないよ」くらいは言っていたのかも知れません。しかしどんな言葉を投げかけたところで声は口先から虚しく消え行くばかりで、ただ泣きじゃくる母の手を強く握り締め、隣で寄り添ってやることしか出来なかったのです。

勝手ながら、あの時の母の気持ちを察するに、母は自分の病気と向き合うことで“生”を見つめ、兄に先立たれたことで“死”を悼み、悲しみに暮れたのだと思います。抗うことのできない“生と死”。誰も憎むこともできず、何も吐き捨てることもできず、不条理な嘆きは澱んだ渦になって、ぐるぐる気持ちの中で止まりながら回り続けます。

僕がこの作品を観て感じたのはそんな死生観でした。人生に於いて抗えない苦しみや悲しみ。“どうにもならないこと”を受け入れ、他人を憂い気を遣い、なす術のない自分の人生を嘆きながら、それでも今日を生きていく。そんな人間の弱さと強さ、そして終焉へ向かう儚さが繊細に描かれいて、感動が深く心に刻まれました。

これまでギャスパー・ノエ監督作品を多く観てきた人たちの中には、今作を観て“彼らしくない”と言う人もいれば“もの足りない”と言う人がいるかも知れません。しかし、いつものノエ監督らしい激しさは全くなかったのですが、静かながらも心の中に激しい感情が渦巻くような、とても素晴らしい作品でした。

これまでにない感情を掻き立てる作品。
やはりノエ監督は天才だと思います。
ベイビー

ベイビー