Film日記係

すずめの戸締まりのFilm日記係のレビュー・感想・評価

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
3.8
【危険と隣り合わせと知りながらたくましく生きる人々の美学】
見えない危険と隣り合わせの僕たちは、それでも何でもない日々を一歩一歩生きている。その儚くも力強く美しい、日本に住む人たちの生き様を感じさせてくれる。ギザギザハートの子守唄を歌っているお爺さんに、個人的に一番心揺さぶられた。

【考察されることを前提とした新海誠】
物語の細部を考察する人が増えた昨今の潮流に、新海誠監督がトコトン応えにきたな。そう感じさせられるくらいに、鑑賞回数を重ねるほどに何の気ないシーンにグッとくるようになる、深みのある作品であった。

【タイトルコールがピークだった新海誠ならではのカタルシス】
一方で、残念だったところとしては、過去作(特に『天気の子』)にあったような、瞬間的なカタルシスは割と控えめな印象である。冒頭の宮崎の場面にて、鈴芽と草太が出会い、その後鈴芽が扉を開けたことで地震が発生し、地震を止めるべく鈴芽と草太が扉を閉めるところまでが、観ているこちらに落ち着かせる間もなく流れていき、そして「すずめの戸締り」とドーンとタイトルが出るところが最高だったものの、そこがカタルシスのピークだった感じも否めない。やはり、『天気の子』の序盤から中盤、そして終盤にかけて尻上りに勢いとリズムを高めていき、最後グランドエスケープで我々を昇天させてくれる、その破壊力が凄かったのだと、改めてまじまじと痛感させられた。

【「未来への継承」が実現されづらい、芸術としての欠陥】
これは個人的な評価軸であるが、映画を含むあらゆる芸術作品は、人生を映し出す鏡であり、作品と対峙した感性的経験を作品に保存できることが、芸術の持つ力と素晴らしさだと考える。幼少期、20代、30代、40代と、時間の経過とともに同じ作品を観ても、作品に対する印象は往々にして変化する。それは我々の人生経験やその時自分が何に興味を寄せ、悩み、想いを寄せているかによって、作品の表情はいかようにも違って見える。そして、再び作品を開いたとき、過去に見たときに自分がどういう感想を抱いたのか、作品を通じて思い出すことができる。私が毎年『千と千尋の神隠し』を観るたびに、違う点に惹かれ、違うところに心振るわせているのを通じて、前回観てから今日までの自分の人生がそうさせていると、人生を省みることができるのだ。

また、これは個人軸だけでなく、社会軸でも行われるはずだ。
すぐれた作品は、どの時代を生きた人々でも、その当時の時世に当てはめて、その作品を咀嚼し、自分の経験と感性と照らし合わせる鏡となるものだと、私は考えるわけだ。例えば『シン・ゴジラ』。ゴジラは最初に製作された1954年、本来当時の水爆実験や冷戦に表面化される核に対する脅威と人々の生活環境への影響を、ゴジラというアイコンを用いて風刺的に表現したと思うのだが、これを21世紀を生きる我々が観た時、当時の社会状況との接続も考慮することはさることながら、我々は自分たちの経験としての脅威、例えば地震や津波といった自然災害やテロによる安全の阻害などと結びつけてこの映画を楽しむこともできる。こうした一人一人の頭の中の再構築を映画化したのが庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』であった。このように、映画はそのフィクション性によって、時代を超えて人々の経験や感性、価値観と接続し、気付きや感動をもたらしてくれる。

ここまでを前提としたとき、本作はどうだったか?
言うまでもなく、本作では災害という表現としてフィクションを介在させず、「3・11」という歴史的事実をそのままトレースした形となっている。これは今現在を生きる我々にとっては痛烈なメッセージ性を帯びることになるが、事実を事実として描くことで、この先10年、50年、100年後の人々が感情移入してこの作品と対峙できるかと言われるといささか難しいのではないかと思う。どれだけ時間が経過しても、事実は事実として我々の人生に並走した形で作品が表情を変えづらいところに、本作の欠陥があると個人的には感じる。もちろん現在観ている我々にひたすら合わせたマーケットイン的な手法が色濃く出ている作品として、今の評価は高いであろうが、本作が時代を超えて愛され続けるかどうかという観点で見ると、個人的には10年後にまた観ようとはならないであろう。

面白さ:0.7 脚本:0.7 人物:0.8
映像:0.8 音楽:0.8
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