タキ

TAR/ターのタキのネタバレレビュー・内容・結末

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

実在の人物かと思ってた。
それぐらい全方位完璧な作り込みで、架空の人物と知った今でもちょっと信じられない気持ちでいる。
監督がどうしても主役をケイト・ブランシェットでと熱望した意味を考えている。これを中年の男性がやってしまうとよくあるセクハラ告発映画になってしまう。ジェンダーレスにすることで「権力」に目がいくようにあえて設定しているのではないか。権力を持った人間のハラスメント行為は男であろうと女であろうと実は関係ないのだ。これはまさによしながふみの「大奥」にも描かれていて、あまりの慧眼に震えたものだった。パワハラやセクハラ、果ては自分の立場が悪くなるとメールを消去し、男の振る舞いをしながら自分は暴漢に襲われる非力な女であることをアピールするようなことまでする。しかしTARをケイト・ブランシェットが演じることでその人物がとても魅力的にみえてしまうという危うさもはらんでいて、カリスマをとりまく我らの感情も揺れ動き、芸術と人間性をイコールにするべきか否か、いまだに結論はでない。
精神のバランスを失いかけはじめるところから全てを失い失意のまま実家でバーンスタインのビデオを見て泣くところまで、ケイト・ブランシェットのえげつない振り幅にひれ伏すしかない。
リディアはフィリピンでオーケストラのような並びのマッサージ嬢たちからひとり選べと言われて吐いたが、ここでやっと自分のやってしまったことの醜悪さに気がついたのかなと思う。
新天地で指揮台に乗るTAR。モンハンのコスプレをした観客たち。TARとともに新大陸への船に乗る仲間たちだと思うと胸が熱くなる。音楽の本質がきっとここにはあるのだ。
しかしこの映画、あまり視聴者に親切には作ってはいない。最低でも2回見ないとわからないことが多すぎる。クラシック用語や業界に詳しくないと最初の1時間はかなり苦痛。なんといまTARがいる場所の説明すらなくて、どこにいるのか何度もわからなくなった。不親切設計も監督の計算のうちだろうけど。

以下、監督インタビューと作中の会話の中にでてくる人物名の説明を載せておくので(主にWikipediaからひっぱってます)みなさんの理解の助けにしてください。

◾️衝撃作『TAR/ター』で奇跡の復活を遂げた“幻の名匠”トッド・フィールド、16年間の空白を語る【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】 https://moviewalker.jp/news/article/1134644/

◾️「TAR ター」トッド・フィールド監督インタビュー ケイト・ブランシェットは「映画全体を理解する、フィルムメイカーのような視点を持っている」 https://eiga.com/news/20230513/3/

◾️映画『TAR/ター』にトッド・フィールド監督が「クラシック音楽界」と「ケイト・ブランシェット」を選んだ理由 https://ontomo-mag.com/article/interview/tar-todd-field-202305/

◾️「この映画は体感型」 トッド・フィールド監督×ケイト・ブランシェット対談で語る秘話 映画『TAR/ター』 https://otocoto.jp/news/tar0425/

◾️「芸術において完璧はありえない」ケイト・ブランシェットが語る新作『TAR/ター』と音楽の記憶https://screenonline.jp/_ct/17627673

◾️【町山&藤谷アメTube】ケイト・ブランシェットが怪演!「 TAR/ター」徹底解説!(前編)https://youtu.be/e2D8D103k8s?si=xkYDe9Zcz515BJVs

ラストシーンの意味とは!?伏線だらけ!映画「TAR/ター」ネタバレ解説!(後編)https://youtu.be/247lX1Uh1l8?si=qLcD4bZEsdSnCYz6


【作中の会話に登場する人物たち】
※床にばら撒いたレコードジャケットの中からリディアが足で示した1枚。リディアはこのレコードジャケットのアバドの真似をして洋服を仕立て同じ鉛筆を使うなどをしていた。
⚫︎クラウディオ・アバド
1933年6月26日 - 2014年1月20日
イタリア・ミラノ出身の指揮者。
ミラノの音楽一家の家に生まれウィーン音楽院でスワロフスキーに指揮を学ぶ。カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭でデビュー。ミラノスカラ座の指揮者から芸術監督、ロンドン交響楽団首席指揮者、音楽監督、ウィーン国立歌劇場音楽監督、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督を歴任する。楽曲解釈は知的なアプローチをとるが、実際のリハーサルではほとんど言葉を発さず、あくまでタクトと身体表現によって奏者らの意見を募る音楽を作っていくスタイル。一時期ロシア出身のバイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァと不倫関係にあり、ウィーンで4年間生活を共にしていた。ムローヴァとの間に男児がいる。
※アバドの横に並んでいたレコード。幼少期リディアはバーンスタインの番組を見て音楽家の道を志したと思われる。
⚫︎レナード・バーンスタイン
1918年8月25日 - 1990年10月14日 ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られる。アメリカマサチューセッツ州ローレンスで生まれる。音楽的な環境にはない家であった。カーティス音楽院などで学び、指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに、作曲はウォルター・ピストンに、ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事した。しばらく仕事を得られない時期もあったが1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任した。のちに音楽監督になり辞任後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。妻と3人の子があるが同性愛傾向があることも隠してはいなかった。

※アダム・コプニクとの対談にでてきた女性指揮者2名
⚫︎マリン・オールソップ
1956年10月16日生まれ。アメリカ合衆国の女性指揮者。ニューヨーク、マンハッタン生まれ。両親は共にニューヨーク・シティ・バレエ管弦楽団の楽団員。イェール大学に進学した後、ジュリアード音楽院で修士・博士号(ヴァイオリン科)を取得。1989年、タングルウッド音楽祭クーセヴィツキー賞を受賞し、レナード・バーンスタイン、小澤征爾らに教えを受けた。1993年にはコロラド交響楽団の音楽監督に就任し注目を集める。2005年、ユーリ・テミルカーノフの後を継ぎボルティモア交響楽団の音楽監督に就任することが発表された。これによりオールソップは、アメリカで初めてメジャー・オーケストラの音楽監督を務める女性指揮者となった。2023年からポーランド国立放送交響楽団芸術監督・首席指揮者を務める。同性愛者であることを公表しており、1990年からホルン奏者の Kristin Jurkscheit とパートナーの関係を結んでいる。彼女らには息子が一人いる。
⚫︎ジョアン・ファレッタ
1954年2月27日生まれ。
ニューヨーク市のクイーンズ区でイタリア系アメリカ人の家庭に育った。 7歳からクラシックギター、マンドリンを学び、マネス音楽学校に入学。同校で指揮法を学んだ後、ジュリアード音楽院およびクイーンズ・カレッジ・アーロン・コープランド音楽学校の指揮科へ進んだ。1991年にヴァージニア交響楽団の音楽監督に就任。1999年よりバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めている。2011年から4シーズンに渡り北アイルランド・アルスター管弦楽団の首席指揮者を務めたほか、ロンドン交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団、ソウル・フィルハーモニー管弦楽団等に度々客演、北米のみならず世界各地に活躍の場を広げている。

※リディアが敬愛する女性指揮者として挙げた。ブーランジェは成功例だと言った。
⚫︎ナディア・ブーランジェ
1887年9月16日 – 1979年10月22日
フランスの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者(大学教授)。最高水準にある音楽教師の一人として知られ、20世紀の最も重要な作曲家や演奏家の数々を世に送り出した。実家は代々音楽家の家系。1897年、10歳でパリ音楽院に入学しオルガンをアレクサンドル・ギルマンとルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールとガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した。1912年に指揮者としてデビューを果たした。主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団やボストン交響楽団、ハレ管弦楽団、BBC交響楽団などを指揮した。1907年にパリ女子音楽院において教育活動に入る。ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法(ソルフェージュの応用)などである。

※ブーランジェは成功例だがその逆としてリディアが挙げた女性指揮者。彼女の功績を客演の枠を出ず見せ物とまで言った。
⚫︎アントニア・ブリコ
1902年-1989年
オランダロッテルダムで生まれる。女性の指揮者がほとんど存在しなかった時代、1930年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者としてデビューを果たす。女性指揮者のパイオニア。その後も、女性だけのオーケストラを結成するなど、常識を打ち破り続けた。

※バーンスタインが与えたものは?と聞かれリディアはカバナ(精神の集中)作曲家の意図とどう向き合うかと答えたが問題になった元判事ブレッド・カバノーを思い出したとアダムが混ぜ返す。
⚫︎ブレッド・カバノー
1965年生まれ。アメリカ合衆国の法律家、裁判官。2018年7月9日にドナルド・トランプ大統領から連邦最高裁判所陪席判事に指名された。2018年6月、アンソニー・ケネディ最高裁判事が引退を発表すると、ドナルド・トランプ大統領は後任候補6人を直接面接し、2018年7月9日、ブレット・カバノーを指名。しかしその後、カバノーに高校生時代の性的暴行疑惑が持ち上がり野党・民主党が追及。就任に過半数の賛成が必要な上院では与野党の議席数が拮抗していたため承認が危ぶまれる事態となり、調査のため採決を1週間遅らせることを余儀なくされたが、10月7日に「賛成50、反対48」の賛成多数で承認され就任した。

※アダムとの対談で指揮のはじまりとして名が出る
⚫︎ジャン=バティスト・リュリ
1632年11月28日 - 1687年3月22日
フランス王国盛期バロック音楽の作曲家。ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにした。一方でリュリはその放蕩でも悪名高く、両性愛の噂が絶えずスキャンダルにみまわれる。ルイ14世の不興を買うことになったが王太子からの寵はかわらなかった。1687年1月8日、リュリはルイ14世の病気快癒を祝して『テ・デウム』を指揮した。当時の習慣に従って、長くて重い杖を指揮棒として使い、それで床を打ってリズムをとっていたのだが、誤って足を勢いよく強打し、傷口には大きな膿瘍が出来た。やがてそこから酷い壊疽を起こして、3月22日に急死。

※携帯でリディアのNY滞在中のホテルの部屋を映しながら何者かがチャットで会話をしている(フランチェスカとクリスタか?)「ドミンゴの部屋?」と問いかけ「皮肉のつもり?」と答える。リディアがセクハラをしていると示唆しているシーン。
⚫︎プラシド・ドミンゴ
1941年1月21日生まれ。
スペインのオペラ歌手、指揮者、芸術監督。ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスと共に三大テノールとしても広く知られる。輝かしい経歴の一方でセクハラ疑惑もある。2019年8月13日、AP通信は、長年セクハラや不適切な行為を受けていたと告発する女性歌手ら9人の証言を報じた。ロサンジェルス歌劇場が調査に乗り出し、9月にも11人の女性が被害を申し立てている。ダラス歌劇場とサンフランシスコ歌劇場は予定されていた公演をキャンセル、フィラデルフィア管弦楽団は出演依頼の取り下げとなった。芸術監督を務めていたメトロポリタン歌劇場はロサンジェルス歌劇場の調査結果を待って最終決定を下す方針であったが、9月25日の『マクベス』と11月の『マダム・バタフライ』については降板となることを発表し、「ドミンゴ氏は今後METで開催される公演に出演しないことで合意しました。METとドミンゴ氏は同氏が降板する必要があるという点で同意しています」とコメント。2020年2月25日にドミンゴは「(女性たちに)生じさせた苦しみを本当に申し訳なく思っていることを知ってもらいたい。私の行為に関する全責任を負う」と被害者への謝罪を表明した。オペラ歌手らで作られる米労組の弁護士は2019年9月から12月末まで55人に聞き取り調査を行っており、1990年代と2000年代にドミンゴによるセクハラを経験もしくは目撃した27人に加えて、12人がドミンゴの評判を知っていたことが分かった。2人の女性は自らのキャリアに悪影響が及ばぬよう、性的行為を強いられて従うほかなかったと話しているという。ドミンゴの謝罪表明の翌日、スペイン政府はマドリードでの2つの公演をキャンセルし、スペイン文化庁は5月にサルスエラ国立劇場で予定されていたフェデリコ・モレーノ・トローバの『ルイサ・フェルナンダ』については降板とすることを発表した。

※イスラエルフィルとの成功の秘訣をカプランに問われリディアは団員に「ユダヤ人か?」と聞かれたことを「まるでブルッフだ」と自慢げに話した。
⚫︎マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ
1838年1月6日 - 1920年10月2日
ケルンに生まれベルリンで没したドイツの作曲家、指揮者、教育者。ユダヤの題材を用いた作品で成功を収めたためにユダヤ人の血を引くのではないかと疑われ、1935年にナチス政府によって上演禁止となった。

※リディアがジュリアード音楽院での講義中、指揮をしていた学生マックスに誰に影響されてここにきたのかたずねる。
⚫︎サラ・チャン
1980年12月10日生まれ。フィラデルフィア出身の韓国系アメリカ人のヴァイオリニスト。8歳のデビュー以来、北米をはじめ、ヨーロッパ、アジア圏で活動し、そのキャリアは20年以上におよぶ。6歳でジュリアード音楽院に入学。
※学生マックスが指揮していた現代音楽。作曲者によりワイヤブラシを使いシンバルをの表面をこすると指示が書いてある。リディアはまるでレネ・レベピの料理のようだと揶揄する。
⚫︎レネ・レベピ
デンマーク、コペンハーゲンのレストラン「noma(ノーマ)」のオーナーシェフ。15歳より料理の道に入り、「El Bulli (エル・ブジ)」など一流レストランで修業を積んだ。2003年のノーマ設立時よりスカンジナビア地域の旬の食材と文化を織り交ぜた料理を探求して提供している。

※リディアの「作曲者の意図」についての講義。4分33秒が理解できなくても恥じることはないと学生たちに語りかける。
⚫︎4分33秒
アメリカの音楽家ジョン・ケージが1952年に作曲した曲。ケージの作品の中で最も知られており、音楽に対するケージの思想が最も簡潔に表現された作品でもある。楽譜では4分33秒という演奏時間が決められているが、演奏者が出す音響の指示がない。そのため演奏者は音を出さず、聴衆はその場に起きる音を聴く。演奏者がコントロールをして生み出す音はないが、演奏場所の内外で偶然に起きる音、聴衆自身が立てる音などの意図しない音は存在する。沈黙とは無音ではなく「意図しない音が起きている状態」を指し、楽音と非楽音には違いがないというケージの主張が表れている。
※リディアが学生マックスにキリエやロ短調ミサはどうかと問うもバッハに興味はないしバッハの男尊女卑的な考えは理解できないと返される。
⚫︎キリエ
「キリエ・エレイソン」はキリスト教の礼拝における重要な祈りの一つ。
⚫︎ミサ曲ロ短調
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作曲したミサ曲。日本語ではロ短調ミサなどとも称される。早くは1724年に書かれたものを部分的に含むが、最終的に完成したのは、バッハの死の前年の1749年である。現代では、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲と並び、バッハの作品の中でも最高峰に位置するとされている。そして、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス ニ長調」とともに演奏会用ミサ曲の最高傑作と呼ばれる。
※学生マックスはシュバイツァーも読んだことがない
⚫︎アルベルト・シュヴァイツァー
1875年1月14日 - 1965年9月4日
アルザス人の医師、神学者、哲学者、オルガニスト、音楽学者、博学者。医師として有名であるが音楽にも精通し、バッハ研究家としても名を馳せる。その著作『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』(1904年フランス語による初版、1908年ドイツ語による増補版、邦訳あり)は、厳密な歴史研究の点では、既に過去の文献となっている。しかし、随所に彼のバッハへの深い理解と鋭い直感がみられ、魅力的な作曲家像を描くことに成功しており、いまなお一読の価値を失っていない。
※リディアがピアノを弾きながら学生マックスにバッハを教えるシーン
⚫︎シュローダー
ピーナッツのキャラクター。
ベートーヴェンを敬愛する小さな天才音楽家。おもちゃのピアノで大人顔負けの演奏ができるが、本物のピアノは受け付けない。
⚫︎グレン・ハーバート・グールド
1932年9月25日 - 1982年10月4日
カナダのピアニスト、作曲家。
グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主であった。デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいていた。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができる。グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。グールドはピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張した。異様に低い椅子(父親に依頼して作ってもらった高さおよそ30cmの特製折りたたみ椅子)に座り、極端に猫背で前のめりの姿勢になって大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めた。
※学生マックスが好きだと言った作曲家。リディアはバレーズはかつてジャズを「ユダヤに搾取された黒人が作った」と言っており猿の惑星の作曲家にも盗作だと難癖をつけた酷い侮辱じゃないかと言った。性別や出生地性的能力でバッハを過小評価するなら君もそうされるぞ、世界で活躍したいなら作曲家に敬意を払い、自分のエゴと個性を昇華させろ。観客や神の前に立つ時は自分を消すんだと忠告する。マックスは怒り中座することになる。
⚫︎エドガー・ヴァレーズ
1883年12月22日 - 1965年11月6日
フランスに生まれ、アメリカに帰化した作曲家。パリ生まれ。初期はクロード・ドビュッシーらと親交を持ち、後期ロマン派や印象主義の影響を受けた作品を書いていた。しかし、その後初期作品の全てを一曲を残して廃棄し、残っていた草稿も後に火災により焼失したが、1908年に作曲した交響詩『ブルゴーニュ』は1962年に破棄するまで手元に残していた。その後イタリア未来派、フェルッチョ・ブゾーニ、イーゴリ・ストラヴィンスキーの影響を受け、『アメリカ』(1920年)以降、打楽器を多用した作品を多数発表。第二次世界大戦以降は電子音楽も取り入れた。
多数の打楽器の使用、電子楽器の使用など、それまでの音楽とは、はっきりと一線を画した斬新な音響空間は後の現代作曲家達に大きな影響を与えた。残された作品は少ないが、一つ一つが個性的、色彩的でエネルギーに満ち、完成度が高い。ヴァレーズの音楽は「ピアノソロに変換、あるいはピアノ・リダクションの不可能な音響作品」と評価されつづけてきたが、スペインの作曲家ホセ・マヌエル・ロペス・ロペスは比較的リダクションの楽な「オクタンドル」をピアノソロに編曲した。彼の音楽の革新性は、20世紀後半の多くの作曲家に大きな影響を与えた。

※ホテルのフロントに預けられていた無記名のプレゼント。中身はchallengeというタイトルの本。パートナーがいながら不倫をしパートナー解消はしないリディアへの当て擦りのためか。プレゼントの主はクリスタかもしくはフランチェスカと思われる。
⚫︎Callengeの作者
ヴィタ・サックヴィル=ウェスト(1892年3月9日 - 1962年6月2日)イギリスの詩人・作家。ケントのサックヴィル家の館、ノール・ハウスで生まれる。父は第3代サックヴィル男爵ライオネル。本名はヴィクトリアであるが、彼女は一生をヴィタの名前で通した。長身で細身の、中性的な容姿をしていた。1913年、外交官のハロルド・ニコルソンと結婚した。2人は息子を2人もうけた。結婚当初からオープンマリッジを選択し、ブルームズベリー・グループの芸術家たちのように、夫や妻以外の恋人をもつことには寛容だった。ヴィタの初恋の相手が女性だったということにもあらわれているが、彼女は両性愛の傾向があった。また、夫のハロルドも男性の恋人をもったという。ヴァイオレット・ケッペル=トレフューシスと出会ったのは、まだヴィタが12歳、ヴァイオレット10歳の頃だった(ヴァイオレットの母はイギリス国王エドワード7世の公妾アリス・ケッペルだった)。2人は同じ学校に通い、10代の間恋愛関係にあった。互いに結婚して夫を持つと疎遠になっていたが、1918年、ヴィタの子育てが一段落した頃、2人はフランスへ駆け落ちした。ヴィタは男性の服装で家族の目をくらましたという。2人の関係は、ヴィタがハロルドとの夫婦関係を清算する気がなく、ヴァイオレットがヴィタをハロルドと共有することに我慢ならなかったことから、終わりを迎えた。2人はそれからも連絡を取り続けていたが、元の関係に戻ることはなかった。ヴィタの小説 "Challenge" は2人の関係を元に書かれている。のちにヴァージニア・ウルフとも関係があった。

※リディアがベルリンの自宅に戻ってきた次の日の朝、大音量のオーケストラ演奏の音が鳴る(目覚まし代わりのラジオか)
⚫︎ウォルター・ピストン
1894年1月20日 - 1976年11月12日
アメリカ合衆国の作曲家、音楽教師。
⚫︎マイケル・ティルソン・トーマス
1944年12月21日生まれ。
アメリカの指揮者、ピアニスト、作曲家。MTTとも略される。カリフォルニア州ロサンゼルスにて、ロシア系ユダヤ人の家庭に生まれる。1988年には、クラウディオ・アバドの後任として、ロンドン交響楽団の首席指揮者に抜擢される。 1995年から2020年までサンフランシスコ交響楽団の音楽監督、現在は桂冠音楽監督を務める。これはピエール・モントゥーの19年間を超える最長期間の在任となり、自主制作を含む録音も量産し黄金期を迎えることとなった。特に、一連のマーラーの録音は高い売上と豊富な受賞があり、極めて高い評価を得ている。ゲイであることを自ら公表したことで知られており現在は30年以上にわたってプライベートとビジネスの両面でMTTを支えているジョシュア・ロビソンと共に、カリフォルニアに在住。2014年11月、ロビソンと正式に結婚。

※リディアの師であるアンドレスとの会話に出てくる人物
⚫︎ユージン・エインズレー・グーセンス1893年5月26日 - 1962年6月13日
イギリスの指揮者、作曲家。ロンドンで、ベルギー出身の指揮者でヴァイオリン奏者のユージン・グーセンスの子として生まれる。ブルッヘ、リヴァプールで音楽を学んだ後、ロンドンの王立音楽大学でチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードに師事。1912年から1915年までクイーンズホール管弦楽団でヴァイオリン奏者を務めた後、1916年にスタンフォードのオペラ「批評家」を指揮した。
⚫︎アルトゥール・ショーペンハウアー1788年2月22日 - 1860年9月21日ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』。グダニスク(ダンツィヒ)で富裕な銀行家のもとに生まれ、生涯生活の心配なく暮らした。幼少期からイギリス、フランスなどヨーロッパ諸国を旅行し、それが彼の世界観・芸術観にも影響している。また、女流作家である母ヨハンナ(1766―1838)との不和・対立は有名で、彼独特の女嫌いと女性蔑視(べっし)の考えの一因になっている。父の死後、1809年よりゲッティンゲン大学で歴史・自然科学を、ほかに懐疑主義者シュルツェ(1761―1833)について哲学を学んだ。

※グラモフォンのジャケット撮影でカメラマンからどういうスタイルで撮るかモデルの写真を見ながら打診されるがその流れでなぜかドゥダメルのジャケットがでてくる
⚫︎グスターボ・アドルフォ・ドゥダメル・ラミレス
1981年1月26日生まれ。
ベネズエラの指揮者。バルキシメト生まれ。ユース・オーケストラやサルサ・バンドでトロンボーン奏者として活動していた父親と声楽家の母親の元で幼い頃から音楽に親しみ、5歳頃からエル・システマによる音楽教育を受け始める。10歳でヴァイオリンを選択し、12歳のときにコンサートマスターを務めていた地元のユース弦楽合奏団で指揮にも取り組むようになり、Rodolfo Saglimbeniやホセ・アントニオ・アブレウにも教えを受けながら1996年には同楽団の音楽監督になる。2006年には、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラを指揮し、ベートーヴェンの交響曲第5番、第7番やマーラーの第5交響曲をドイツ・グラモフォンに録音し、その覇気あふれる演奏で話題となった。

※副指揮者セバスチャンに解任の話をしに行くシーン。セバスチャンのコレクションの中にカリンニコフの銅像がある。
⚫︎ヴァシーリー・セルゲイェーヴィチ・カリーンニコフ1866年1月13日- 1901年1月11日。ロシアの作曲家。オリョーリ県オリョーリ出身。イワン・ツルゲーネフと同郷である。貧しく倹しい警官の家庭に生まれる。1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、それから同年にモスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。以前からの過労が祟って健康が悪化し、結核に罹患したために、やむなく劇場での活動を断念し、温暖な気候のもとでの転地療養を余儀なくされてクリミア南部に向かう。生涯の終わりをヤルタで過ごした。2つの交響曲とアレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイの『皇帝ボリス』のための劇付随音楽は、同地で作曲されている。

※フランチェスカがグラモフォンの事務所秘書からなぜアナログ録音しないのか、ロン・ユーの例もあると言われたとリディアに話す
⚫︎ロン・ユー
中国人指揮者。1964年に上海の音楽一家に生まれる。初期の音楽教育は、彼の祖父であり著名な作曲家でもある丁善徳から受け、後に上海音楽学院とベルリン芸術大学に進んだ。現在、北京国際音楽祭と中国フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督、上海交響楽団と広州交響楽団の音楽監督、さらに上海夏季音楽祭(MISA)の共同ディレクターを務めている。

※リディアがベルリンフィルの新チェリスト、オルガと古いレストランで昼食を取るシーン。ナポレオンやベートーヴェンも食事にきたかもしれないとリディアが言うとオルガがツェトキンもこのレストランに来ただろうかと言う。リディアはツェトキンを知らなかった
⚫︎クララ・ツェトキン
1857年7月5日 - 1933年6月20日)
ドイツの政治家・フェミニスト。社会主義の立場による女性解放運動を主導し、女性解放運動の母と呼ばれる。1878年にドイツ社会主義労働者党に加入。ビスマルクの弾圧を逃れて、チューリッヒからパリへ亡命。第二インターナショナルの活動に従事。1891年~1917年に社会民主党の女性向け機関誌『平等』の編集者となり、1907年には新設された党婦人部長に就任。1911年には国際社会主義婦人会議に出席し、1904年3月8日にアメリカの女性労働者がデモを行ったことに因んで3月8日を「国際女性デー」とするよう提唱した。1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を掌握。国会議事堂放火事件で共産党が非合法化されると、70代半ばの高齢をおしてソビエト連邦に亡命した。同年にモスクワ近郊で客死し遺骸はクレムリンの壁墓所の壁に葬られた。
※オルガはベルリンフィルに来るまではモスクワフィルにいたと思われる。シモノフはオルガの叔父。
⚫︎ユーリ・シモノフ
1941年3月4日生まれは、ロシアの指揮者。1969年、ボリショイ劇場にて「アイーダ」でデビュー。1998年からモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団で首席指揮者を務めている。
※リディアがオルガにロストロポーヴィチは好きかと尋ねると目標はデュプレだと返される。オルガの情熱的な演奏スタイルはデュプレに由来すると思われる。オルガはYouTubeでデュプレがエルガーを演奏しているのを見たと言ったが指揮者が誰なのか、ましてやバレンボイムかデュプレの夫であることも知らないようだった。
⚫︎ムスティスラフ・レオポリドヴィチ・ロストロポーヴィチ
1927年3月27日 - 2007年4月27日
アゼルバイジャン(旧ソビエト連邦)出身のチェリスト、指揮者。特にチェリストとしては20世紀後半を代表する巨匠として名高い。愛称は名前の一部と「光栄」を意味するロシア語の単語に由来するスラヴァ。チェリストとしてのロストロポーヴィチは、圧倒的な技巧と豊かな音量に裏付けられた、スケールの大きな表現性で広く知られた。レパートリーはバロック音楽から現代音楽まで幅広い。
⚫︎ジャクリーヌ・デュ・プレ
1945年1月26日 - 1987年10月19日
イギリスのチェロ奏者。同郷であるエルガーの協奏曲の演奏はよく知られている。
難病の多発性硬化症を患い1973年に事実上の引退、その後チェロ奏者の教師をし後進の教育にあたり42歳の若さで亡くなる。1961年から73年までの約12年間の活動期間中に残された録音の多くは、集中度の高い情熱的な演奏が特徴で、現在も名盤とされる。演奏スタイルが情熱的すぎるとの批判はデビュー前から多かったが、悲壮的な雰囲気の強いエルガーのチェロ協奏曲や、ショパン最後の楽曲となったチェロソナタなど、情緒的な色彩の強い楽曲の演奏に関しては卓越した才能を発揮した。全盛期の録音は1960年代のものが多く、現在のデジタル技術を用いたものと比べると録音状態の悪さは否めないが、その悲劇的な後半生とも相まって今でも多くのファンを集めている。指揮者のダニエル・バレンボイムは夫。バレンボイムとは数々の演奏を残した。

※リディアは師であるアンドリスに学生や同僚ともめたり誤解をさせたことがあるかと尋ねる。アンドリスは怒り、レヴァインみたいなセクハラ疑惑はゴメンだと吐き捨てる。セクハラ事件を起こした音楽家とナチに翻弄された音楽家が同列かと問うとアンドリスはどちらも覚悟がいると答える
⚫︎ジェームズ・ローレンス・レヴァイン1943年6月23日 - 2021年3月9日
アメリカ合衆国の指揮者、ピアニスト。愛称はジミー。メトロポリタン歌劇場では1975年より音楽監督、1986年からは(同劇場で史上初の)芸術監督に就任。世界の大歌劇場、コンサートオーケストラとしても類をみない長期在任が現在まで続いた。2017年、レヴァインは健康上の理由からメトロポリタン歌劇場芸術監督を退任するが、その後も同劇場名誉音楽監督の称号を得て同劇場での演奏を続けた。しかし、2018年に性的スキャンダルによってメトロポリタン歌劇場から解任された。 
(レヴァインの性的スキャンダル)
2017年12月2日、40代男性が、男性が15歳だった1985年から数年間にわたり、レヴァインより性器を触られたり目前で裸になり自慰行為を強要されるなどの性的虐待を受けたため自殺を考えるまでに思いつめていたとニューヨーク・ポストが報じた。男性は2016年、イリノイ州警察にレヴァインを性的虐待で告発していたという。レヴァイン自身は否定している。12月3日にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場が同劇場の名誉指揮者であるレヴァインが不適切な性的行為を繰り返していた疑惑が浮上したとして2017年度のプログラムから外すことを決めた。劇場のピーター・ゲルブ総裁は調査を元ニュージャージー地区連邦検事のロバート・J・クリアリーに依頼した。劇場側はレヴァインが音楽監督在任中に複数の疑惑があったことを認識している。2018年3月12日、メトロポリタン歌劇場は、調査の結果性的虐待疑惑の「信頼できる証拠」が出たとして、レヴァインを解雇した。
⚫︎シャルル・エドゥアール・デュトワ1936年10月7日生まれ。
スイス出身の指揮者。「音の魔術師」との異名をとる。
(デュトワのセクハラ事件)
2017年に4人の女性がデュトワから性的暴行を受けたと告発する記事が公開された。デュトワは否定したが、その後さらに匿名によるレイプ被害の訴え1件を含む複数名によるセクハラ行為を訴える記事が同じ記者から公開された。告発後、世界各地の複数のオーケストラがデュトワとの公演を中止したほか、英国ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団はデュトワを芸術監督と首席指揮者から退任させ、ボストン交響楽団はデュトワへの名誉称号を剥奪のうえ関係を絶ったと発表した。2019年、フランス国立管弦楽団は病気のエマニュエル・クリビヌの代役にデュトワを指名し抗議を受けた。楽団側は、楽団員の6割もデュトワ起用に反対だったが、15人以上の代役候補に断られたうえの決定であると説明した。
⚫︎ヴィルヘルム・フルトヴェングラー1886年1月25日- 1954年11月30日
ドイツの指揮者、作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行った。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。1934年ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。ヒンデミット事件は、1934年のドイツ楽壇で起こった政治的な作曲家排斥事件と、それに伴って「ドイツ一般新聞」(ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング、Deutsche Allgemeine Zeitung)に掲載された指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの新聞投稿のタイトルである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⚫︎ヘルベルト・フォン・カラヤン
1908年4月5日 - 1989年7月16日
オーストリア=ハンガリー帝国、ザルツブルク公国(英語版)ザルツブルク生まれの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「魔術師カラヤン」「カラヤン美学」などと謳われ時代の寵児にもなった。1946年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との第二次世界大戦後初の演奏会を前に、戦時中ナチスの党員であった(※)ことを理由に、ソビエト連邦の占領軍によって公開演奏停止処分を受けた。しかし、翌1947年には再び処分保留となった。
(※)1933年4月8日、ザルツブルクにおいて当時オーストリアでは非合法政党だったナチスへの入党手続きをとった。ナチスの党員簿によると、最初の入党後カラヤンは行方不明扱いとされ、最初の党員番号は抹消されており、同年5月1日にウルムで再入党している。当時のことを後年「私にとってナチス党員になることはスキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述懐している。戦後の非ナチ化審理の際、カラヤンは1935年、アーヘン市立歌劇場のポスト就任と同時に入党と申告しているが、なぜ非ナチ化委員会でカラヤンの申告が不問にされたかは謎に包まれている。ただし、リチャード・オズボーン著の伝記では「戦後の時代に誤った情報が多く流された」とされており、議論の前提となる資料に多くの誤りがあったと述べられている。

供述録取書とは…
被告人・被疑者・参考人などの供述を聞き取って作成した書面。 一定の条件のもとに証拠能力が認められる。 供述調書。
タキ

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