ymd

ケイコ 目を澄ませてのymdのレビュー・感想・評価

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.8
この映画を映画館で観ることができたことを幸運に思う。個人的に2022年公開の映画作品でベスト級の一本。
そしてこれからもこの映画はぼくの記憶に深く刻まれるのは間違いない。

今作はいわゆる「スポ根映画」ではない。
もちろんケイコ(岸井ゆきの)はリングを主戦場として生活を送るボクサーなのでスポーツを主題に置いた映画であることには違いないのだけれど、あくまでボクシングはケイコにとっての日常の一つであり、劇中のアパートや河川敷、浅草の雑踏と変わらない風景である。

では今作は全聾という障害に寄り添ったヒューマンドラマなのかというとそういうことでもないと思うのだ。

これも当然のことながらこの映画における重要な要素であるのだけど、今作を短絡的に「障害を乗り越えようと生きる人間の物語」として要約しようとするのはあまりにもナンセンスだし、それこそエンターテイメントにとって最も忌避されるべき感動ポルノに陥りかねない。

誤解を招く言い方かもしれないけれど、今作がとにかく素晴らしいのは全聾という設定をあくまでも「その人のひとつの個性」としか描いていないことにある。
だからこの映画に登場するケイコの親しい間柄にある人物たちは皆、ケイコに対して過剰な態度を見せることはなく、ひとりのボクシングに打ち込む人間として接しているのである。
それは三浦友和演じるジムの会長のセリフが何よりも雄弁に物語っていることだ。

余談だが、三宅監督とも親交の深い濱口竜介監督も近年の大傑作『ドライブ・マイ・カー』の中で聴覚障害者を持つキャラクターを登場させているが、作品それぞれが持つ根本的なテーマの違いによって向き合い方が異なっているのも非常に興味深い。


極めてパーソナルな空間で近しい人間だけが描かれる本作は「当たり前にそこにある景色」の連なりであり、まるでこの世界がこれまでも、これからもずっと続いているものなのではないかと錯覚するほどに深いレベルでリアリティが貫かれている。

だからこそケイコがひとたびパーソナルな空間から逸脱したシーン(コンビニ、警察官との遭遇、真新しい最新のジム)の持つ無自覚な凶暴性が浮き彫りになるのだ。

その凶暴性は翻って我々観衆ひとりひとりの意識にまで波及している。我々が“一般的だと思い込んでいる”コミュニケーションは不確実なもので、それは本来いつも困難で不安定なものであることを画面を通して訴えかけてくるように思えてくるのである。

16mmフィルムカメラのざらついた映像の質感は日常風景の中で見落としがちな光の美しさを繊細に掬い取る。
陽が翳りボクシングジムの中に光と影のコントラストが生まれる瞬間が映画の中で何度も登場するのだが、その明暗の微妙なグラデーションがそのままケイコの心情の機微とリンクしているように感じる演出の妙に唸る。

何気ないカットの中に、演者の表情やセリフだけではなく照明と音響の綿密なセッティングを施すその丁寧な絵づくりの素晴らしさは筆舌に尽くし難い。

エンドクレジットの短さが物語るように非常に小規模で作られた低予算映画なのかもしれないけど、決してハリウッドでは作ることができないだろう、日本映画の最良の結晶であると断言できる。
ymd

ymd