新潟の映画野郎らりほう

マイ・ブロークン・マリコの新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

マイ・ブロークン・マリコ(2022年製作の映画)
1.5
【送り火と】


社内喫煙所で 脚を大きく開き 視線を下に紫煙を燻らすシイノ(永野芽郁)。
床に落とした吸殻を見遣り、遺灰(位牌)と焼香が彼女の中に喚起される―。

海を目指すロードムービーであり、海とは 無論 死の地平“彼岸”の象徴であり、同時に 限り無い自由である。

度々現れる岸辺=彼岸の住人マキオ(窪田正孝)の稀薄な実存性。
マリコ(奈緒)の飛び降りと、反復/対照化されるシイノの飛び降り。そして意識の喪失と目覚め。

人を“送る”とはどうゆう事か。
人を想うと同時に自らをも顧みる ― 自らも彼岸の際に一度立つとゆう事だ。

シイノ自身(生きていると思っていた)今までの惰性な“生”を、今やっと本当に生きる ― 飯を喰い、泣き喚き、走り、啖呵を切り、そして飛ぶ ― 永野芽郁の 無様で 愚直で 滑稽なアクションの数々はその証左に他ならない。




〈追記〉
とまあ上記に一応 肯定/優良点は挙げておこうか。

以下否定的見解。


まあ喋る〃。対話で、独り言で、心の中で、書簡の音読で、そしてナレーションで。
よく喋る割には 態々言語化する迄も無い科白が殆どだが。

マリコの初登場場面で、彼女の指には既に包帯が巻かれ 頬には痣が残っている ― もうそれだけで彼女の境遇は説明し切っていると言ってよい筈だが、この映画は その包帯と痣の原因と為る“答え合わせ場面”を挿入せねば気が済まない。

結果 僅か85分のランタイムでありながら、無駄ショット/空ショットだらけの冗長で腑抜けた画面が連続する事と為る。

言葉で語らず 演者のアクションに依って語らせるべきを、ワンカットで十分伝わる情報に対し 3つも4つもカットを重ねる鈍重。

揚げ句 フラッシュバックの多用。
何の為に 位牌に語りかけているのか、何の為の独り言と心象ナレーションかと。回想無しでも成立させる為だろうに。
この程度の作劇、科白や回想に頼らず時間の連続性の中で成立させるのが映画演出だろう。

黒沢清「岸辺の旅」との主題的類似性が伺えるものの、劇中一切の回想場面が無く 時間の連続性で描き切った「岸辺の旅」とは雲泥である。




《劇場観賞》