【最後の映画】
小泉堯史と云えば黒澤明であり、仲代達矢や香川京子のキャスティングとはつまりそうゆう事だ。
フィルム撮影への拘りも 結局はデジタルコンバートが施され、大多数の観客には 気付きすらされまい。
小泉堯史が、維新に依って滅び逝く旧体制と、黒澤に代表される古き良き日本映画の終焉とを 重ね合わせているのは確かだ。
人物クローズアップばかりで テレビ的構図の国内現主流映画群に比し、人物の全身像を捉えたロングショットを主としたキャメラアイは 明らかに旧来映画のそれだ。
何故 アップではなくロングなのか。それは人物の所作や位置/向きに依って趣意を語らんとするからである。
特に 河井継之助(役所広司)の従者である松蔵(永山絢斗)は 劇中殆ど辞を発せず、主人の草履を用意し、行灯を手に数歩先を行ったりと その身体性に依って人物像が為されている。また、全編通じ寡黙であったからこそ最後の慟哭がより胸を衝くだろう。
現主流映画表現ではない。
だが確かに、ここには古き良き美しさが息衝いている。
〈追記〉
ロングショット(引き画)主体のルックは「所作や位置等の構図に依って語る為」と上述したが、同時に「遠くへ去って逝く人達」の暗示とも為っていよう。
その為、映画内人物達に近付く事叶わぬ傍観的諦念に心を支配された。
《劇場観賞》