新潟の映画野郎らりほう

流浪の月の新潟の映画野郎らりほうのレビュー・感想・評価

流浪の月(2022年製作の映画)
3.2
【多様の踏み絵~善意面した無自覚な悪意】


冒頭、公園遊具/ブランコに腰掛ける少女で以て、タイトル主題系である「地に足着かぬ魂の彷徨い」が表徴される。

開かれた書籍頁上に落ちる(涙の様な)雨雫。その後 雨脚が強まり、河川の流れは粗暴に為ってゆく ― 小事が取り返しつかぬ大事に為ってゆく事の暗示である。

婚約者:亮(横浜流星)が不意に現れる喫茶店では、その不穏/緊張を示す様に 豆を挽くコーヒーミルの耳障りな粉砕音が鳴り響く。一転、傷付いた更紗(広瀬すず)を文(松坂桃李)が介抱する場面では ドリップする湯の暖かい音色が心地好い ― 音響用法の好例。

背中越しに亮の愛撫を受ける更紗の相貌が寝室鏡台に鏡写し、彼女の裏腹な心象を映し出す。
その鏡の暗喩は、亮の実家に於ける秘匿した側面/虚像をも浮かび上がらせている。

店先の誹謗の落書きは店内側から捉えられる事に依って、ネット等で気軽に書き込み可能な誹謗の言葉の先には 生きた人がいる ― この当然の事象を痛々しく具現化する。


社会倫理/常識から逸脱した者への誹謗と排斥。
最終局で示される「ある理由」は、そんな大多数の(本作観客含む)常識連を納得させる為の弁明に過ぎない。
常識連=観客とは、自身の常識が揺さぶられ(ブランコの暗喩)脅かされる事への鬼胎が 誹謗/排斥に転じ、自身の狭量な固定観念で理解可能な理由(弁明)を求め 安心しようとする。

……
……

理由なぞ無くとも異を理解/尊重するのが“多様”だろうに。

近年 頓に謳われる“多様性”。
然し、自分の常識/固定観念で咀嚼可能な“理由/説明”を必要とする様では、それは真の多様性とはとても云えまい。

最終局のあの“理由”は、理由有りで ―或いは無しで― 理解/尊重出来るか否かの観客に対する真の「多様の踏み絵」と為る。

「警察に行けば」「行政に云えば」「犯罪は犯罪」等々…。それら常識的思考が多様を排斥する事と為る『善意面した無自覚な悪意』の罠。
常識外を四の五の言わずに受け入れる度量が欲しい。



「更紗は更紗だけのものだ」
「私はかわいそうな子じゃない」
上記科白を鑑みれば、彼等は常識連に寄り添おう ―理解してもらおう― なぞ これっぽっちも思っていない。

多様とは、自分で自分の道を決める事。安易に周りの流れに身を委ねぬ事。そう、誰(常識)が何と思おうとも―。


彼等は乗り越えられる筈だ。
想い出そう、冒頭の 雨脚が強まり 激流(誹謗の渦)と為った河川上に架かる橋梁を、彼等が静かに越えてゆく姿を―。

彼等は乗り越えられる、屹度―。




《劇場観賞》