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さかなのこのkuuのレビュー・感想・評価

さかなのこ(2022年製作の映画)
3.8
『さかなのこ』
映倫区分 G.
製作年 2022年。上映時間 139分。
魚類に関する豊富な知識でタレントや学者としても活躍するさかなクンの半生を、沖田修一監督がのんを主演に迎えて映画化。
『横道世之介』でも組んだ沖田監督と前田司郎がともに脚本を手がけ、さかなクンの自叙伝『さかなクンの一魚一会 まいにち夢中な人生!』をもとに、フィクションを織り交ぜながらユーモアたっぷりに描く。

小学生のミー坊は魚が大好きで、寝ても覚めても魚のことばかり考えている。父親は周囲の子どもとは少し違うことを心配するが、母親はそんなミー坊を温かく見守り、背中を押し続けた。高校生になっても魚に夢中なミー坊は、町の不良たちとも何故か仲が良い。やがてひとり暮らしを始めたミー坊は、多くの出会いや再会を経験しながら、ミー坊だけが進むことのできる道へ飛び込んでいく。

太朗という名前があるとする。
太朗は、親からはタロッ、友達からはタロチャンタロくんという愛称で呼ばれてる。
太朗さんは、公的発言にもちろん問題ナシ。
タロチャンさんは、おかしい。
ただし、後輩などがタロチャンさんと呼ぶことはありえる。
さかなくんさんの場合やっぱりちょっとおかしいのかな。
しかし、さかなくんは愛称ではなく通称。
本名が周囲や世間に通用していない状態での呼び名。
この場合は、『さん』という敬称を付けざるを得ないことがあります。
さかんくんが本名を公開していない場合などです。
しかし、さかなくんさんちゅうの聞くと少し耳ぎょぎょっとなる。
KABAちゃんさん、クロちゃんさんのようなものくろちゃんは、ボケナスでも十分かな失礼。
このことは、フィルマークスでもよく戸惑う。
個人的には『🔘🔘さん』ってハンドルネームの方は『🔘🔘さんさん』になるので、さんを付けず、それ以外は『さん』をつけるようにしてます。
つまり、敬称が重なって聞こえるような呼び方は避けてます。
愛称や通称に、敬称をつけることは、日本語として間違ってるのか否かを考えつつ鑑賞しました。

さて、今作品はですが、日本の有名な魚類学者であるさかなクンが、日本の社会構造の中での地位を実現するために重要だったそれらの瞬間について、平和で軽快な探究を提供してます。
沖田修一監督の描きは、実際、社会的現実に自らを刻み込むための神経症的な方法とは別の方法があることを見事に示してました。
今作品の幼年期のシークエンスは、ミー坊が社会の構造にうまく適合できなかった(例えば、馬鹿にされても理解できない)事実に単に触れているのではなく、魚という記号が、彼特有の方法で、彼自身を社会の構造に刻み込み、彼の主観的機能に論理を与えるという重要な役割を果たしたことを表している。
ミー坊の特異な性質にどう対処するかという親の葛藤は、息子を神経症的な正常さに押し込めようとする父ちゃんの願望と、彼が自分の主観的な道をどう書きたいかを支持する母ちゃんの衝突の関数である。
実際、父ちゃんは、魚が記号としての彼の解決策であり、現実、想像、象徴の領域を結びつける彼独自の方法であることに気づいていない。
魚の脳を使ったボディワーク的(シンセティック)性質は、神経症的な社会常識の代表として機能することを目指す父ちゃんが、その象徴的機能から追放されていることを意味する。
父ちゃんの望む方向や興味の本質に、父ちゃんの概念はほとんど影響を与えない。
もちろん、母ちゃんが魚という概念の過激な重要性を十分に理解しているかどうかはわからないが、それでも息子の海洋生物に対する過激な関心を無条件に支持している。
彼女の学校環境、回りの人々もまた、彼のシンセティックな解決を承認する上で重要でない役割を担っている。
しかし、この主体的解決の設置は、彼が社会のフィールドの中で機能する場所を探す上で直面するすべての課題が解決されたことを意味するわけではない。
社会が彼に投げかける課題、例えば仕事において社会的な期待に応え、彼は自分の道を切り開き、自分が望む魚の専門家になることができるのだろうか?
そして、さまざまな出会いを重ねながら紆余曲折を経てきた彼の特異な存在感は、人々にどのような影響を与えるのだろうか?
今作品には軽妙な語り口が多い。
しかし、この物語に魅力的な雰囲気を与えるのに最も効果的なのは、ミー坊と他の人々との相互作用のダイナミズムである。
ミー坊は、ある意味、行間を読めない性格であり(例えば、壬生義士が初めて出会ったギャングの脅しに気づかない、水族館で働く壬生義士に苦労する)、魚が好きであることが特徴である。
先日嵌まったドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』を思い出すなぁ。
このような彼の特異な行動様式をエレガントに演出することで、観客に微笑みを与え、物語がやや間延びしているように見える瞬間にも、観客を引きつけることに成功しているのだと思います。
今作品の構成は、穏やかな流動的なダイナミズムと、抑制されたトラッキングの瞬間、そして多くの静止した瞬間が混在しており、その穏やかなリズムが、ゆっくりと展開するこの物語を完全にサポートしていることが際立っています。
沖田修一監督はこの構図の中で、海洋生物の詩的な美しさを十分な時間をかけて表現している。
このような視覚的な美しさは、観客を楽しませるだけでなく、ミー坊が魚の世界に興味を持つきっかけにもなっている。
この構図の視覚的な楽しさを保証しているのは、わずかに黄色がかった色調、自然の光、そして映像に見られる微妙な粒状性です。
このような要素に配慮することで、沖田は撮影構図に深みと質感を与えるだけでなく、物語の展開を自然主義でマークしている。
また、のんは、魅力と子供のようなバイタリティにあふれた演技を披露しています。
彼女の演じるミー坊/サカナくんは、観客を魅了することに成功しているだけでなく、彼と他者との交流が、サカナくんの(独創的な解釈による)人生の物語に観客を引きつける力を与えている。小学生のミー坊を演じた子役の演技も同様です。彼女の演技は、彼の海洋生物への興味に魅力的な無邪気さだけでなく、純粋さをも与えている。
今作品は、社会構造の中に自らを組み込むために、必ずしも神経症的な解決策を用いる必要はないことを示す、非常に心温まる感動的な物語であり、物語が少し引き伸ばされたように感じることもあるが、のんの愛らしい演技によって、観客はミー坊の苦悩、欲望、そして最終的に彼が見つける幸福の探求に夢中になり続けることができるのやと思います。
善き作品でした。
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