えいがうるふ

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのえいがうるふのネタバレレビュー・内容・結末

4.8

このレビューはネタバレを含みます

さかなのこのゆるふわが無理だった私に、こっちのゆるふわはちゃんと刺さる不思議。私の感性は繊細なのか鈍感なのか自分でもよく分からない。

人間のタイプがぬいぐるみとしゃべる人としゃべらない人に二分されるのだとしたら私は間違いなく後者なのだが、ぬいぐるみ自体はかなり偏愛している。したがって我が家にはおそらく成人のみで構成された一般家庭の平均よりもずっと多くのぬいぐるみがある。
いや、「ある」のではなく「いる」のだ。彼らはぬいサー部室のぬいぐるみ達と同じように、ほぼ全個体に固有の名前が名付けられ大切にされている。

なので、この映画が本当にぬいぐるみを大切にする人の目線で作られていることがまず嬉しかった。なにしろ部室の壁一面に所狭しと並べられたぬいぐるみ達が、セットのための単なる寄せ集めではなく皆ちゃんと選抜された精鋭であることが伝わってくるのだ。ファブリック製のふわふわした物体なら何でもいいわけじゃなく、寄り添う力がある子をちゃんと選んでひとつひとつ並べてくれたのが伝わるセットだった。それを必要とする人の世界観を大事にする制作側の気持ちが画面を通じて伝わってくるようだった。
さらに、ぬいサーメンバーのキャラクターも絶妙だった。特に、人一倍生きづらさを抱えていそうな鱈山さんの痛々しさが愛おしくてたまらない。確かに彼のような人にとってぬいサーのような心の避難場所は生きていくために必要な場所なのだろう。
ところで立命館大にぬいサーは本当にあるのだろうか?

巷には恋の歌が溢れ、老いも若きも恋を謳歌してこそ充実の人生だなんて思われがちな世の中ではあるが、恋愛のもつ心身エナジーブースト効果はあまりに強烈かつハイリスクハイリターンなので決して万人向けではないと思う。まして、自分の言葉で誰かを傷つけることを恐れるあまりぬいぐるみに思いを吐き出すことを選ぶほど繊細な人々にとって、恋愛は劇薬すぎて副作用ダメージの方が大きいのではなかろうか。

それでも敢えてチャレンジしてしまうのは人間の生物としての本能がなせる技だろうか。
本能先行の野獣のような人間が相変わらず存在する一方で、逆に生殖衝動から解放された恋愛不要世代が現れてきたのもまた人間という種の進化のように思える。まさにその過渡期にある一部の若い世代の人々は、恋愛至上主義の世間からのプレッシャーと、自身の中にかすかに燻る本能と精神とのせめぎ合いに苦しんでいるように見える時があって、この作品もまたそんなハザマ世代の苦しみの一面を描いているように見えた。

おそらく自分ではどうにもならないその違和感から抜け出すには、やはり少し勇気を出して失敗しながらありのままの自分自身に向き合っていくしかないのだろう。
したがって七森が果敢にも白城ちゃんに告白したくだりは、たとえ結果が最初から見えていても、いや見えているからこそ重要なエピソードなのだ。のちに彼が「自分のことを分かるために白城ちゃんを傷つけた」とちゃんと彼女に謝れたことは大きい。単なる青春の黒歴史と掃き捨てられるのではなく、相手も自分も傷つけた痛い経験が自分を知る足掛かりの一つとして描かれていることに、親心のような懐の深さを感じた。

麦戸ちゃんが突然学校に来られなくなった理由を、自分はてっきり三角関係に悩んでのことかと早合点してしまったが、実際は恋愛とは無関係のことがきっかけだった。へ、そうなの?と思ってしまった自分は、おそらく感性が旧世代のそれからアップデートできていないのだろう。つまりかように自覚なく頭が古い自分は彼らのような人々を不用意に傷つける可能性がある。気をつけねば。

また、各種メディアにおいて女性たちがジェンダーの押し付けに抵抗の声をあげることが珍しくなくなった一方で、「男らしさ」の押し付けに苦しむ男性たちの気持ちは相変わらず蔑ろにされている傾向が否めない。
おそらくその理由は、最大の敵が同性である男だからだろう。嗚呼。
それを如実に示した旧友との飲み会シーンで、心を閉ざした七森の耳を背後からそっと塞いでくれたぬいぐるみの手。あれこそがまさにこの作品のやさしさを象徴するようだった。
無理に声の大きい奴らの宣う旧来の価値観に合わせて生きなくてもいい。そんな自分を知り、それぞれのやり方で自分の心を守って生き抜くだけでいいよと、その手は彼を守っているようだった。

七森が「嫌な奴はとことん嫌な奴であってほしい」と願うのは、きっと、彼が他人を憎むことがとことん苦手なやさしい人だからだろう。
実際、嫌だと思った相手を面と向かって拒絶できない人はとても多い。嫌なことを言われた自分の傷より言った相手の真意をつい慮ってしまったり、自分が気にしすぎなのではと思い悩んで、SNSすら一度つながった相手をなかなかブロックできない。
そうして当人がいくら大丈夫なふりをしたところで心の傷は痛み続け、いつか悲鳴をあげる。だから本当は大丈夫じゃないことを自分で確認するために、それを口に出して伝える相手が必要なのだと思う。その相手はぬいぐるみでもいいし、なんなら路傍の石でも見上げた雲でもいい。語りかける相手は結局は自分なのだから。
そしていつか、その思いを本当に分かり合える生身の人間に出会えたらなんと幸せなことだろう。映画だからこそのその幸運な瞬間が描かれていて私はとてもホッとした。


やさしすぎる友達をやさしさから自由にしてあげたい、だから私はぬいぐるみとしゃべらない、と言った白城ちゃんもまたおせっかいなほどやさしい人だった。序盤ではぬいサーから完全に浮いた存在に見えた彼女は、やさしさに溺れていては打たれ弱くなってしまうと敢えてジェンダーゴリ押しの外海へも進み出る強さを持った人だった。
しかしそんな彼女もまた、つい要領よく長いものに巻かれがちな自分になにかモヤモヤした違和感を抱えていたのかもしれない。だからこそ、全方向的モヤモヤを受け入れるぬいサーに引き寄せられ、そこで彼女なりの居場所と使命とを見つけたのだろうと思える清々しいラストだった。

つまり、ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいが、しゃべらない人がやさしくないわけでもない。それぞれがその人なりに生きればよしと肯定してくれる、どこまでも人にやさしい作品だった。