kuu

ホワイト・ノイズのkuuのレビュー・感想・評価

ホワイト・ノイズ(2022年製作の映画)
3.8
『ホワイト・ノイズ』
原題 White Noise.
映倫区分 G
製作年 2022年。上映時間 136分。
ノア・バームバック監督が、アダム・ドライバーを主演に迎えて描く風刺的な人間ドラマ。
原作は、アメリカの作家ドン・デリーロによる同名小説。
主演は、『マリッジ・ストーリー』でもバームバック監督とタッグを組んだアダム・ドライバー。
共演には、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)作品のジェームズ・“ローディ”・ローズ/ウォーマシン役でおなじみのドン・チードル、バームバック監督の公私にわたるパートナーでもある、『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグ。
2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品でNetflixで2022年12月30日から配信。
一部劇場で同年12月9日から公開やそうでした。

化学物質の流出事故に見舞われ、死を恐れるあまり錯乱してしまった大学教授が、家族とともに命を守るため逃走する。
現代アメリカに生きる家族が死を身近に感じる環境に置かれたことで、愛や幸福といった普遍的な問題に向き合っていく姿を描く。

今作品は、シュールで不条理なユーモアに溢れ、時折ホラーも混じる、奇妙で焦点の定まらない実存主義的な苦悩の浪漫が基本にある。
特に、レトロな設定と、個人的な問題の医療化に対する執着、そして、ちょっとしたクレイジーな科学の進歩が我々全員を救うのではないかちゅう絶望的な希望(矛盾した)を考えると、シリアスとバカげたスタイル、そして、レベルを絶えず揺れ動く非常に明確なチャプターに分かれている。
登場人物や状況の不条理さは、バームバックがウェス・アンダーソンと組んだ初期の作品(特に脚本を担当した『ライフ・アクアティック』(2004年 )を彷彿とさせるものでした。
アダム・ドライバーは尊大な学者役で愉快であり、ドン・チードルは彼のたゆまぬ哲学的な相棒を見事に演じていた。
実際、グレタ・ガーウィグをはじめ、全員が楽しませてくれました(彼女はなんで、こないに見やすく、しかもヒドイ演技をすることができるんやろ笑)。
この不運な一団をワイルドで極端な場所に連れて行くという筋書きで、90分を過ぎる頃には、この旅は次にどこへ行くのか、奇天烈さに、正直、楽しくなっていた。
しかし、残念ながら、この映画は最終章になると、想像力を失い、より身近な題材になり、沈滞してしまってた。
また、エンディングの最終的なメッセージは、序章で探求したアイデアからすると、かなり陳腐で単純なものになり下がってしまったかな。
1985年に出版されたドン・デリーロの小説をノア・バームバックが映画化した今作品。
今作品は、小難しく書けば兇変的な喜劇であり、
西洋の繁栄とその不満と不安。
そして、知的飽和についての瞑想と云える。
何も悪いことは起こらへんちゅう仮定に基づく肉感的な黙示録的回想であるとも云える。
生態系災害に対する我々の関心は、合理的な先制攻撃のためではなく、非合理的なオカルト的恐怖、死に対する超自然的な予防接種のために演じられているということなんかな。
デリーロの饒舌でウィットに富んだアイデア小説は、40年近くも映画製作者たちに渇望されてきた。
バームバックは、そのデリーロの原作を確実な映画化によって、大きな白鯨を釣り上げたって云っても過言じゃないかな。
彼の映画は、単にアメリカのキャンパスにおけるポストモダニズムの流行的な時代性を語る時代物としてのこの本の豊かさだけじゃなく、現代の恐怖についていかに先見の明があるかを増幅していた。
上空を漂う有毒な化学物質の雲を前にしたアメリカ郊外の中心地の恐怖
空気中の有毒事象(Airborne Toxic Eventメディアが列車事故の余波に付けた名前で、電車が衝突して他の車両と衝突すると、電車から化学物質の雲が立ち上り、隣の町に広がる)は、新型コロナウイルスとコロナ禍初頭(海外ならロックダウン)、そしてこのパンデミックと不安で正常化しない融和に対処しているように感じられた。
そして、情報と解釈の偏在が進むこと、あることを示すデータと反対のことを示す一見同じように有効なデータが入手可能であることへの執着についてで、これは、捏造された事実のホワイトノイズであり、陰謀やフェイクニュースが根付く劣悪なテレビ受信のフィズであり、粒子状の形のないモヤモヤ。
砂嵐のような『サーッ』『シーッ』『ゴーォ』てな感じの白色雑音は、一説には集中力の向上や安眠効果など、嬉しい効果があると、ひそかに話題になってた。
しかし、ホワイトノイズには脳や聴覚への悪影響がある可能性もある。
溢れる情報もまさにホワイトノイズのやう。
アダム・ドライバーは、中西部の文系学者ジャック・グラッドニーを演じています。
中年で、偽の腹が出ているのかと思いきや、医師の治療室でシャツを脱いで腹部を露出させるシーンがあります、彼はニコラス・ケイジの道を辿ろうとしとんのか不安はある。
グレタ・ガーウィグが演じるバベットは、愛想のいい気ままな妻で、ふたりとも離婚しているが、早熟な子供たちと義理の子供たちのいるにぎやかな家庭を仕切っている。
ジャックは、ヒトラー研究(グラッドニーはドイツ語を話さない)という奇妙にばかげた学問の世界におけるアメリカの第一人者であり、悲劇的で恐ろしい文脈に圧倒されることなく、また必ずしも意識することなくヒトラーの図像を分解する非歴史的手法。
この物語は、ベルリンの壁崩壊によって西側で一時的に、そして控えめに祝福された歴史の終わりを少し予感させる。
ジャックの同僚であるマレー・シスキンド(ドン・チードル演じる)は、ジャックがヒトラーにしたことをエルヴィスにすることを望んでおり、大きなセットでは、2人がエルヴィスとヒトラーについて同時に独創的な(そして軽薄で無遠慮なほど挑発的な)分析を行うことになる。
哲学者スラヴォイ・ジジェクの様な手法ではこの二人の右に出るものはいない。
ジャックとバベットは、不安ながらも満足してる。
それは、夢見がちで無愛想な巨大スーパーを訪れる、昔ながらの映画によって演出されており、付け加えるなら、華麗な振り付けのエンディング・シーンの舞台にもなっている。
しかし、ジャックには悩みがあるり、バベットには初期認知症と思われる症状があり、さらにダイラーという謎の薬物の中毒になっているようで、ゴミ箱に空き瓶が落ちている。
グーグル検索にも引っ掛からないため、ジャックと子供たちは、『ダイラー』てのはいったい何なんか、その危険性は何なんか、学会の仲間に聞いたり、医学の教科書を調べたりするほかない。(同じようにYouTubeがない時代、子供たちはテレビのニュースで飛行機事故の映像を夢中になって待っている)。
そして、大クラッシュが起こる。
ジャックダニエルを飲んでガソリンを運ぶトラックの運転手が、揮発性の有毒廃棄物を運ぶ列車に衝突することで起こる環境破壊である。
(アメリカ映画における自動車事故がいかに本質的に軽快なジャンルであるか、マレーが面白おかしく講義しているのをすでに見ている)。
その結果生じた毒の雲によって、彼らは家を離れることになる。
この脱出劇では、ステーションワゴンが増水した川を漂うちゅうシュールなシーンが登場する。
この奇妙な異常現象は、それにもかかわらず、ジャックを空気中の毒素にさらすもので、彼は、気が狂うほど信頼できない情報源から、数十年後に彼を殺すかもしれないことを知る。
本当かどうかは別として、この主張は、ジャックにとって自分が死ぬことを実感させる方法となっている。
そしてバベットもまた、自分の死を恐れてる。
死は、キャンパスの危機と夫婦の喜劇の下にあり、今作品のシリアスな層であると云える。 
死は、あらゆる噂や憶測の中にあり、逃れられない現実。
物語は、登場人物が死を恐れながらも、彼らの人生における確実な唯一の保証として死を抱いていることを同時に示している。
ジャックとバベットの奇妙な生活。
現実からヒーローのように離れている。
それは、スピルバーグ的なキッチンでの家族のおしゃべりの割には、共感するには奇妙すぎるものでした。
kuu

kuu