ゆうすけ

怪物のゆうすけのネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

監督の是枝裕和と坂元裕二の脚本、今年ご逝去された坂本龍一の音楽と超一流の人たちによる力作。なんとエンドロールで企画・プロデュースに川村元気の名前も発見し、製作陣の豪華さに驚かされました。

この映画、ホラー映画の古典『フランケンシュタイン』(1931)と宮沢賢治の小説『銀河鉄道の夜』の影響が伺えます。

『フランケンシュタイン』は、フランケンシュタイン博士によって生み出されたモンスターが、人間によって造られたにも関わらず不気味だという理由から嫌がらせを受け続け、その反発として暴れてしまうという話です。実はこのモンスターには、犯罪者の脳が使われています。これが、本作における「豚の脳が入っている」という、強烈な言葉の元となっています。
また、この物語の起点となるビルの火災。『フランケンシュタイン』では、モンスターは風車小屋もろとも焼かれるという最後を迎えます。これが高い建物が燃えているという点において類似しており、その火災をバックに『怪物』とタイトルが出るわけですから、意識していると思います。
そして、『フランケンシュタイン』のモンスターがなぜ暴れたかといえば、言ってしまえばいじめみたいなものです。さらに、実はこのモンスターはすごくピュアな存在で、湖に花を投げて遊んでいた少女と出会った際、一緒に遊ぶシーンがあります。しかし、「湖に物体を投げたら浮かんで楽しい」という解釈をしてその少女を湖に投げてしまい、少女は溺死してしまいます。このピュアだからこそ起きた事件、というのがまさに「ピュアなだけなのに(ある視点において)モンスターに見えてしまう」という、この構造が本作のプロットそのものなのです。

そして『銀河鉄道の夜』。主人公ジョバンニが、疎遠になってしまった友人カムパネルラと銀河鉄道に乗り合わせ、生きる意味を学ぶ物語で、終盤に麦野と星川が遊んでいた廃れた車両がそのまま銀河鉄道をモチーフとしています。宇宙の装飾もしてあった上に、2人はあの車両の中だけで友達でいられる。学校では、いじめられっ子と中立の人という立ち位置で、これはジョバンニとカムパネルラの関係と全く一緒です。しかも、ジョバンニは作中でカンパネルラに対しての感情を下記のように描かれています。

「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ」

「けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい」

宮沢賢治がゲイを意識して書いたかは諸説ありますが、そのように見える描写なのは事実です(ちなみに宮沢賢治は生涯童貞でした)。この点においても『銀河鉄道の夜』を意識していることは明白です。ちなみに、そんなカムパネルラは作中で川に溺れて亡くなっています。

本作の面白い点として、同じ事実を様々な視点から観ることで、解釈の不一致が起こる、いわば『羅生門』(1950)スタイルである、という言説をよく目にしますが、これは少し乱暴な気がします。
確かにある部分では似通っているのですが、その本質は大きく異なると思います。『羅生門』では、起こってしまったレイプ事件を3人の視点で比較する映画ですが、“全く同じ事件“を目撃、或いは体験しているにも関わらず証言が異なる。つまり、誰かが嘘をついており、矛盾が発生しています。これをより正確に引用したのが『最後の決闘裁判』(2021)です。これも同様にレイプを扱っていますが、加害者は「被害者は喜んで応じていた」と言い、その場面を描くシーンも受け入れている描写になっていました。しかし、被害者目線で同様のシーンを描くと、その被害者は逃げ惑っています。これもある一つの事実が、解釈によって捻じ曲げられているのです。
しかし、本作は3人の視点で描かれているものの解釈の余地はほぼありません。本作における視点の違いというのは同じ事象の解釈の違いではなく、当人が知り得る知識量の差に他なりません。なので、事実は一つなのです。

さて、「怪物は誰なのか」問題について触れておこうと思います。換言すれば「誰が悪いのか」という問いになると思いますが、この問いを持つこと自体が本作の罠であることに気づかなければなりません。
「誰が悪いのか」という問いを通して物事を見たために、本作の出来事は誤解が誤解を生み様々な悲劇が生まれてしまったわけです。“わかりやすい悪“を設定することで、理解できない出来事を簡単に解釈できてしまいます。人は、因果関係があることに対して安心感を覚える生き物です。わからないことをわからないで済ませられない。だからこそ、神話や宗教があり、科学が発展し続けているわけです。しかし、これを人間関係に持ち出してしまうと、責任の所在を明らかにし、怒りの矛先を向けることができてしまう。かなり多くの解釈を含んだ、歪んだ因果関係によって。
顕著に表れているのは、あの女子生徒の発言を聞いた保利先生ですよね。女子生徒は「麦野が猫と遊んでいるのを見た」と言っただけなのに、保利先生は「猫を殺した」と解釈した。女子生徒は「そんなこと言ってない!」と主張します。けど、保利先生の中では言ったことになっているんですよね。保利先生は、これまでの麦野への印象と「猫と遊んでいた」という発言を結びつけてしまい「猫を殺した」という説明を頭で作ってしまったわけです。そんな保利先生の趣味が「本の誤字・脱字を見つけること」なのが、すごく象徴的な気がします。

強いていうなら、星川の父親が怪物だろうという声も聞こえてきそうです。確かに、彼は援護の仕様がないように思えます。星川への虐待が疑えてしまう。しかし、このようなテーマを据えて映画を撮っているのに、彼を完全な悪人として設定するでしょうか?
まず、彼が星川を虐待しているシーンは一切出てこない。先生が家に来た時に、いろいろまずい発言をしていたものの、彼は酒に酔っていました。酔っている時の話を、完全に鵜呑みにできるでしょうか。彼を悪人にすることも、しないことも可能です。しかし、簡単に悪人にしてしまうと登場人物たちと同じ道を歩むことになります。彼には彼の事情があるかもしれないし、見えていない部分で事実は違うかもしれない。このような「疑えてしまうが、事実はわからない」という点をこの映画はいくつも用意しています。
他には星川が本当にビルに火をつけたのか、校長は孫を轢き殺してしまったのか、など。本当の怪物は、十分な証拠もないのに勝手に頭で作った物語を信用してしまう、その思考かもしれません。

次に、ラストにおいて麦野と星川は死んだのか、という点。意見が分かれていると思いますが、私は死んだ派です。
理由としては、本作がモチーフにしている『銀河鉄道の夜』ではカムパネルラが川で死んで終わるということ。そして、線路の柵が前のシーンでは閉まっていたのに対し、ラストシーンでは開いていたこと。もちろん、何者かが開けた、嵐の勢いで開いたという説明もできなくはないですが、生前と死後の世界の区別をつける以外に、その描写をする理由がないような気がするので納得がいかない。
あとひとつは、あのトンネル。トンネルというのは、多くの作品で2つの世界を繋げるモチーフとして使われています。川端康成の『雪国』は「トンネルを抜けるとそこは雪国であった」の書き出して有名ですが、主人公の暮らしてきた場所とは明らかに違う景色がそこに広がっていたことがありありと伝わってくる名文です。わかりやすいのは『千と千尋の神隠し』(2001)のトンネル。あれも現世と神の世界を繋ぐものでした。つまり、トンネルを通して「あっちの世界」「こっちの世界」を区別しているわけです。
本作においても、あのトンネルは常世と黄泉を区別する象徴として考えるとわかりやすいです。だからこそ、あちら側では麦野も星川も学校のことを忘れて自分らしくいられたし、銀河鉄道もあったわけですよね。

トンネルだけでなく、本当に様々な細かい描写に富んでいて素晴らしいです。
ゆうすけ

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