シムザスカイウォーカー

PERFECT DAYSのシムザスカイウォーカーのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
3.0
今日より明日、明日より明後日と日々生活を良くしていくのが良いと思っていたし、皆そう思っていると思ってつい最近まで生きてきたけれど、ただの資本主義的な考えでしかなかったと、この映画を観て痛感した。

大量に物を消費し、大量の情報に埋もれ、平日帰宅後は何もする気が起きないくらいに働き詰めで、休日はネットサーフィン、自分の好みなのか、AIに選択するよう仕向けられた物かも分からぬものを買って1日が終わる。そんな人が世の中の大半なのではないか。

だから、平山のように決まったルーティンの中でささやかな楽しみを見つけ、好きなもので満たされた生活を送れたらと願い、この映画を素晴らしいと思うのだろう。

平山は寡黙な男性だが、その表情から喜怒哀楽が手に取るように分かる。役所広司さんの演技の深みに心の中で大拍手を送りました。

現代は頭の回転が速くて、それっぽいことをすぐ答えられる人間が有能ということになっているけれど、それが=人間として総じて素晴らしい完璧ということではないはずだよね。平山からは語らぬ知性を感じるもの。

偉そうなことを言いますが、私は掃除が大好きなので、公共のトイレに入った時に『あぁ、これは掃除が好きじゃない人が掃除したトイレだな』『これは掃除好きな人が掃除したトイレだ!素敵!』と思ったりしています。その観点からすると、平山の掃除したトイレはきっと掃除好きが掃除したトイレだと思うんですよね。

タカシに「やりすぎですよ」と言われても、自分の満足するやり方と自分の基準で掃除をする美学。敬服いたします。

タカシの彼女のアヤの行動と姪のニコの無防備さは、男の幻想でしかなくて『で、出た〜おじさんの夢描写〜〜〜!!!』と思いました。おじさんに都合の良い女は利害がない限り存在しないのよ。

平山が着ていたツナギに書かれていた「THE TOKYO TOILET」はファーストリテイリングの柳井氏が発案・出資し、日本財団が渋谷区に公共トイレを設置したプロジェクトとのことだそう。

クリエイターのNIGO氏がユニフォーム、佐藤可士和氏がトイレのピクトグラムを製作、安藤忠雄氏や隈研吾氏ら名だたる建築家やデザイナーが設計。映画は脚本・プロデュースを電通・高崎卓馬氏が手掛けた。

渋谷区といえば宮下公園を商業施設(ミヤシタパーク)に建て替えてホームレスを追い払ったり、公共の場にあるベンチをアートの名目で座りにくい排除ベンチに差し替えたりと、徹底的に弱者を見捨て追い払ってきた。

それを踏まえると劇中に登場した田中泯さん演じるホームレスをどのような存在として登場させたのか。映画のように公園のど真ん中にテントを張ることなど、渋谷区は許さないだろうし。HPのキャスト欄には「すべてを捨ててそこにいる男は、陽の光に手をときおり伸ばす。その様子がどこか荘厳で、平山は小さな敬意を覚えている」とキャラクター紹介されているが、現実の扱いとのギャップにグロテスクさまで感じる。

劇中には登場していないけれど、幡ヶ谷のトイレは男性用と共用トイレのみしかなく批判が殺到、渋谷区議の1人が「渋谷区としては女性トイレを無くす方向性」と発言したことで炎上しましたよね。(後に区としては否定されたが、炎上を受けて撤回した形?)

この映画が伝えようとすることが素晴らしいと思う一方で、制作に携わる圧倒的強者たちが現実世界でしていることを考えると、弱者の描写の意図はなんだろうか?権力者には楯突かずに、平山のように慎ましやかに暮らし、富を求めるなということだろうか。

時間が経つにつれ、映画そのものがプロジェクトの鳴物入りの宣伝でしかない気がして気分が悪くなる。

プロジェクト発足の概要が"日本の公共トイレの多くが「汚い、臭い、暗い、怖い」として利用者が限られている状況を鑑み、性別、年齢、障がいを問わず、誰もが快適に使用できる公共トイレを作ることを目指している。(Wikipedia参照)"とある。この"誰もが"には社会的弱者が含まれているだろうか。上部を美しく取り繕い、弱者の声を踏み潰そうとしていないだろうか。

レビューを見ていると、この映画を好きな人が沢山いることが分かるし、淡々と過ぎゆく日々にささやかな幸福を見出せたらと思う気持ちも理解できるのに称賛するばかりで良いのかという複雑な気持ち。

そして、私は最後の平山の涙の意味をまだ分からずにいます。分からなかったけれど、私も一緒に泣いた。。