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ステイのkuuのレビュー・感想・評価

ステイ(2005年製作の映画)
3.6
『ステイ』
原題 Stay.
製作年 2005年。上映時間 101分。
自殺予告をする謎に満ちた青年、彼を救おうと必死になる精神科医、精神科医の恋人で不安定な精神状態の女性を中心に現実が奇妙に歪みだす心理スリラー。
監督はマーク・フォースター。
脚本はデイヴィッド・ベニオフ。
出演はユアン・マクレガー。
共演にナオミ・ワッツ、ライアン・ゴズリング。

精神科医のサム(ユアン・マクレガー)は若い男性患者ヘンリー(ライアン・ゴズリングは巧いなぁ)から21歳の誕生日に自殺すると予告される。
彼を気にかけるサムは思いとどまらせようと奔走するが、やがてヘンリーは失踪。
一方、サムの元患者で恋人のライラ(ナオミ・ワッツ)は、サムから聞かされたヘンリーの話に興味を示す。。。

今作品は、まず視聴して感じるのは(おそらく多くの方もかな)、作中で黄色がよく使われてる。
黄色って云ったなら、
太陽の光、幸福、
忠誠、喜び、楽観、
記憶、暖かさが連想される。
気分をアッパーに活気づけ、憂鬱な気分を和らげる。
カラーホイールの中で最も明るく、鮮やかな色と云えるかな。 
タクシーが黄色いのはそのためだそうで、ほとんどの国で交通信号や標識が黄色いのは、注意を促すためであったりする。
目の不自由な方でも、黄色を見分けることができる人もいるそうです。
その一方で、臆病や欺瞞を表す黄色。
ユダはしばしば黄色い服を着て描かれている。
それをふんだんに使った今作品。
写真媒体としての映画が本質的に心理に抵抗するのは真実やと思う。
今作品は、精神医学の教授が、若い芸術家の自死を防ぐために、その芸術家が計画した正確な時間と場所で心理的な手がかりを見つけようと奮闘すると云うあからさまなプロット故に、もし今作品を素人に毛の生えたような監督の手にかかってたなら、どないな作品となってたやろ。
おそらく、陳腐、若しくはつまらないものになってたのかもしれない。
しかし、マーク・フォースター監督は、この筋書きを変えることなく、編集方法を工夫し面白く巧な作品を作り上げた。
教授が本格的な精神病に陥る恐怖と闘わなければならないちゅう、映画の並行筋を作り出したに過ぎないのに巧い。
監督はこの並行プロットを完全に映像で、しかも物語の主人公の視点で伝えているし、その結末はより不穏なモンとなり、ガチガチのホラーなどの狂気のスクリーン描写よりも、自分の心を失うという実感の恐怖を痛切に感じるさせる。
若い芸術家の精神病のアイデンティティが暗黙のうちに、精神科医サムのアイデンティティを磨り減らすように、視覚的なプロットは、意識的なものに打ち勝つ無意識の動機のように、映画のあからさまに書かれたプロットを消費する。
このような野心的な設計を成功させることによって、フォスター監督は、心理がその深さにおいて、ついに可視化される新しいタイプの映画を作り上げてる。
それに加えて、俳優陣が巧やった。
特に今作品のライアン・ゴズリングは巧や。
一部の俳優だけが持つ天性の不気味さと哀愁と云う面を彼は兼ね備えてるよう。
故に、この役は彼にがっちり嵌まってたし、催眠術をかけ、世界観を混乱させることに全力を尽くした、素晴らしく不可解な映画である。
真の芸術への回帰であると書けば大げさだけど、その大げさに匹敵するほどの善き作品でした。
現代の映画にはあまり見られない不変の象徴すら感じる。
今作品の上映が終わり、知るべきことをすべて知ったとき、それは少し考えるに値する。
エンディングは、解決策ではない。
解決策を得るには、映画全体を振り返る必要があり、その際、映像のスタイルがガイドとなるんかな。
それは、人生の素材がその時々の目的のために形作られうることを示す実例と。
そうすると、表面的なストーリーが、以前よりも面白くなる。
その形と内容には意味があるはず。
それは、人生の基本的な出来事を、理解できる言葉に置き換えることで、どのように対処するかの記録と云える。
我々がしたこと、
彼らがしたこと、
これらすべてが辻褄が合い、どこかにつながっているように見えるように整理されてる。
実際はそうではないかもしれない。
しかし、心はそう見えるようにするための機械的な作業をしてる。
そうでなければ、すべては形のない出来事であり、したがって意味もない。
人は形と意味があることを、どれほど切実に求めていることだろう。
嗚呼、盆も近づいてきたし、どうしても抹香臭い仏教哲学が述べる『空(くう)』の概念に今作品を当てはめたら分かりやすいなんて考えてしまう。
出来事は 即ち是 繋がっていない(空)。
繋がっていない(空) 即ち是 出来事。
翻って、この世にあるすべてのものは、実体ではなく、空にほかならないのかなぁ。。。 
考えさせられ妄想空想広がる作品でした。
 
願いの実現を排除すれば、2つの心理的事象を区別する特徴は1つしか残らないことがわかる。
夢思考は次のようなものである。
死体が横たわっている部屋からまぶしい光が見える。
もしかしたら、ろうそくが倒れて、わが子が燃えているかもしれない。
夢はこれらの考察をそのまま繰り返すが、実際に存在し、覚醒した経験のように感覚を通して知覚できる状況でそれらを表現する。
ここに、夢見の過程の最も一般的かつ最も顕著な心理的特徴がある:思考、そして原則として希望する何かについての思考が、夢の中で客観化され、場面として表され、あるいは、私たちには経験されているように見える。。。
このように夢は、白昼夢と同じ方法と同じ権利で現在形を使用するのである。
現在形は、願いが成就されたものとして表現されるものである。
      BYジークムント・フロイト。
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