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浪人街 RONINGAIのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

浪人街 RONINGAI(1990年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

1990年の公開時に劇場で鑑賞済み。
当時は平成になったばかりだった。
実はこの時、この映画をガラガラの劇場で繰り返し見た。
少なくとも3回は見ている。
なぜ、そんなに惹かれたのか?
昭和を代表する豪華キャストが、まるで昭和の終わりとともに時代劇が終焉を迎えようとしているのを、華々しく盛り立てて、お別れをしようとした映画に見えたのである。

この度、中古DVDをリサイクルショップで発見。迷わず購入した。

1928年(昭和3年)公開「浪人街 第一話 美しき獲物」四度目のリメイク作品らしいが、私はこの映画しか知らない。

幕末、夜鷹や浪人が集まる下町の中でもバラックのような一角で、この街で夜鷹が次々と斬られていく事件が発生する。

犯人は遊び半分に凶行におよぶ旗本一党、おまけに大店の商人や同心もグルだから、とても手出しは出来ない。

この街には、四人の食いつめ浪人がいる。

天文学を学びに江戸に出てきたが、何らかの理由で今はお新(樋口可南子)のヒモ同然の荒牧源内(原田芳雄)。

上司の代わりに無実の罪をきせられ浪人となり小鳥を売って生計を立てる土居孫左衛門(田中邦栄)。

殿様の新しい刀の試し斬り(死罪になった罪人の死体を斬る)を生業にする母衣権兵衛(石橋蓮司)。

殴られ屋兼一膳めし屋「まる太」の用心棒、赤牛弥五右衛門(勝新太郎)。

普段は役立たずのろくでなしの彼らが、殺された街の世話役で「まる太」の主人の仇討ちに行って捕まり、牛裂きにされようとしているお新を助けるために立ち上がる…という内容。

映画はへっぴり腰の侍二人による果し合いのシーンから始まる。

負けて死んだ方の刀を、原田芳雄演じる源内が自分の竹光(竹で作った模造刀)と取り替える。

特に言葉の説明もないが、この一連の流れで、長い間平和が続き、侍は真剣をちゃんと使えないのだという状況が分かる。

そこから、何者かに夜鷹が斬り殺される事件と並行して四人の浪人の生業や立ち位置、性格などが描かれていく。

なのでアクション中心の「チャンバラ映画」だと思って観ると肩透かしを食らう。
そこは初見の方に予め注意しておきたい。

117分中約100分は、この四人が、いかに最低な負け犬なのかという描写が続く。

特にまともに働いていない原田芳雄と勝新の負け犬描写が多い。

同時に、この四人がどうして浪人になり、武士に対してどんな思いを抱いているかも、ストーリーの中にちゃんと織り込まれている。

源内は元々学者になりたかったから、武士には未練がない。
川原で読書をして勉強しながら日々をやり過ごしている。

権兵衛は武士に嫌気がさしてるが、生活のため、金のために仕方なく関わっている。

孫左衛門は武士の身分に執着しており、今の暮らしに不満がある。
妹(杉田かおる)が持ってきた士官の話に喜ぶが、支度金百両が必要だと知ると、「お前のせいだ!お前が用意しろ!」と八つ当たりする情け無さ。

赤牛に至っては、自分は武士であることくらいしか人間的な価値がないとすら思っている。
武士を殴れるなんて滅多にないぞと町民から金をせびる。
情け無さに毎朝のように自殺の真似事をするが、それで死んだらもっと情け無いので本当は死ぬ気は無い。

武士として生きたいがため、赤牛は事あるごとに、なんとか士官を果たそうと画策する。
あげくの果てに身内の夜鷹や「まる太」の店主を殺した旗本(中尾彬)に志願する始末。

どん底の負け犬を、かのヒーロー「座頭市」を演じた勝新太郎が嬉々として演じている。
「悪名」「兵隊やくざ」「御用牙」など豪放磊落なイメージが強い勝新太郎がここまで情けない役を演じたのは初めてではなかったか。
しかも、この作品が遺作となった。
芸の幅がさらに広がっていったのではないかと思うと、早すぎる死が惜しまれる。

赤牛のどん底生活を表すエピソードの1つに、夜にうどんを食べるシーンがある。
普段ロクなものを食べていない赤牛。
関西から来たうどん屋(長門裕之)の関西風の味付けを「本物だ」と涙を流して食べる。

それを見たうどん屋が「お代は要りません。あんたの涙で充分や」と言う。
本筋とは全く関係ないのだが、昭和の名優が、まるでお互いの歴史から、その演技や苦労をうどんも味に例えて讃え合っているようで、心に深く残る。

原田芳雄の「源内」と樋口可南子の「お新」の関係も次第に見えてくる。

最初、お新が源内に一方的に惚れてるように見えるけど、話が進むごとに源内もお新を求めてることが分かる。

権兵衛が実はお新に惚れていて、2両の大金でお新を抱かせてくれと懇願する。
自信のなさの裏返しか、悪ぶって「抱かれてやれよ」と言い、お新の愛情を試している。

復讐に失敗し、旗本に殺されようとしているお新を助けにいく手前、源内と店の小僧佐吉のやり取りのシーンが原田芳雄の個性を良く表している。

原田芳雄は、野生的で無頼の男を多く演じてきた。
ハードボイルドでありながら、その実、シャイで本心が言えない「あまのじゃく」という役がよく似合う。

その前のシーンで、源内はお新が死を覚悟で仇討ちに行ったことを知り、助けに行って、自分も死のうと覚悟しているのだか、知らせに来た佐吉にお新を助けるように言われて「他人のために命はかけねえ」とあまのじゃくにも突っぱねる。

「他人じゃないだろ」「他人だ」「他人じゃない」「他人だ。分かりもしねえで知ったふうな事を言うな」
そこで、佐吉は、だったら源内の命を買うと言う。
「俺は高けえぞ」「じゃ、十両払う」
「十五両だ。」「買った」「売った」
要するに、源内はお新を助けに行く大義名分が欲しいだけだ。
そこまで、約100分の前振りがあるから、このやり取りの末に決意を固める源内に、「よし、行け!」とエールを送りたくなる。

店に置いてあった、ありったけの刀を腰に差して、いざお新救出に向かう時に、源内は佐吉に「重いぞ!」と言い残す。

なんせ一本約1kgの刀を十本近く差してるんだから、そりゃそうだ。
しかし、このセリフが多分、源内が武士という身分に感じていた思いの暗喩でもあり、武家社会に対しての皮肉なんだと思う。

いよいよクライマックスの殺陣のシーン。
120人の侍が待ち構える朝霧漂う森に、一人現れる源内。
そこから、斬り合いが始まるけど、これがまた最高に「カッコ悪い」。

源内はもとより、斬りかかる敵も構えからして様になってないこのシーンで、冒頭のへっぴり腰の果し合いが、伏線として回収される。

つまり誰も真剣で斬り合ったことがないから、不格好で当たり前なのだ。

しかし、本来は学者志望でそんなに強いわけがない源内が、相手を不格好ながらも次々に斬っていく。
どっちも弱いんだから、後先考えずに命を掛ける覚悟を決めた方が強いということだ。

とはいえ、多勢に無勢。
これはさすがに無理かと思ったところで、石橋蓮司演じる母衣権兵衛が白装束で駆けつける。

権兵衛は、刀の試し斬りで人を切る感覚に慣れているため、太刀筋に全く迷いがなく物凄く強い。
しかも居合いの達人である。
鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか、相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す居合いの形が、あれだけ人数が多い実戦の場で生きている。

悪役や情け無い役が多い、名脇役の石橋蓮司の演技の歴史上、最もカッコいい役だ❗️(断言)

さらに、冒頭で家宝として登場する甲冑を着て、田中邦栄演じる土居孫左衛門も馬郎から借りた馬に乗って加勢に加わり、形成は逆転。

そんな様子を、勝新太郎演じる赤牛は樽酒を呑みながら笑いながら嬉しそうに見ている。
「今まで散々こき使いやがった侍ども、ザマァ見ろ」と喜んでいるようにも見えるし、「もう支えるべき侍の時代も終わりだ!好きにしてくれ。」と、やけになっているようにも見える。

又は「これで時代劇ももう終わりだ。派手にやれ!」と、かつて自分が数多く演じて来た時代劇の大立ち回りを懐かしんで、讃えているようにも見える。

これは勝新太郎のような時代劇を生きた人間にしか出来ない演技だ。

いよいよ敵の旗本(中尾彬)に迫った権兵衛の前に立ちはだかる赤牛。

すわ、二人の斬り合いかと思った瞬間、赤牛は持っていた刀を自分ごと後ろの旗本に刺す。

このシーンは、赤牛なりの「武士道」を表してるのだと思う。
侍として、一度は仕えた主人を裏切るわけにはいかない。
主人が死ぬときは自分も死ぬのが、彼の「武士道」であり、仲間の浪人たちを裏切った罪悪感もある。
浪人たちと戦うわけにもいかず、支えた旗本を見捨てるわけにもいかない。
そこで自分ごと旗本を刺した。
ある意味、敵から主人を「守った」のである。

つまり、孫左衛門と権兵衛は侍の身分というしがらみを捨て、赤牛は侍として死んだという、男の生き方の物語でもあったという余韻を残す。

そう書くと、結局「男」の世界の話に思われるかもしれないが、実はこの映画の真の主役は女性なのではないかと思う。

面白半分に人を斬る旗本や、グルになって旗本を守る役人も、四人の浪人も、登場する侍は結局「武家社会」のしがらみに縛られている愚か者ばかり。

社会的には底辺の夜鷹たちだけが、体を張って稼ぎ、子供を育て、仲間の死に泣き、仇討ちを決意する。

この映画で懸命に働いて真面目に日々を生きているのは、結局女性である彼女たちだけだ。

それは現代にも通じることで、結局、男は女性には敵わない。

その女性陣の演技や役の立場、リアリティある美術や衣装、この作品を撮ってから10年間沈黙する黒木和雄監督の心情など、まだまだ語り足りない。

自分が年を重ねたため、やはり多くの発見があった。

ネットの論調を読むと、役者頼りとか大殺陣のクライマックスはいいけど、前半は地味で貧乏な生活描写ばかりで面白くないという意見も多い。

それはそれでその通りだ。

だが、その地味で貧乏くさい部分は、ラストの大殺陣への伏線や振りであり、丁寧な人間ドラマだ。

多くの時代劇が、虐げられる人たちの苦労や悲しみを描くから、ラストに善玉が悪を倒すアクションに勧善懲悪のカタルシスが生まれる。

四人の浪人、夜鷹、旗本を通してダメになっていった武家社会の歪みを丁寧に描いている訳だ。
この事件を32年後、徳川幕府を崩壊するとラストカットのテロップが告げる。

時代劇は日本人の心。
日本人の道徳です。
この映画は幕末の時代、武家社会の終焉を描き、人々の決断と新たな旅立ちを描いている。

この映画が公開された当時、
バブル期が昭和と共に終わる頃、私は社会に巣立とうという頃だった。

昭和の終わり。
時代劇の終わり。
自分の青春時代の終わり。
大変思い出深い映画であるため、思い入れがあり、名作とも傑作とも私は言えない。

昭和の名優たちの演技に酔うことが出来る映画。
そして、まるで時代劇の終焉に、しみじみと別れを惜しみ、献杯を捧げたかのような映画である。
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