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獄門島のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

獄門島(1977年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

市川崑監督×石坂浩二主演版金田一耕助シリーズ第3作。
視覚優先人間の私にとって、シリーズ中、最も目に焼き付いている映画。
隔絶された田舎(本作の場合、昔の流刑島)と、色味のないおどろおどろしい風景はそのまま踏襲されているが、2作と比べて非常に色彩が豊か。
それは女優さんたちの役柄に合わせた華やかな衣装のおかげ。
いや、衣装に負けない女優さんたちの演技合戦のせいかもしれない。
それだけに女性が殺される連続殺人事件はビジュアル的に衝撃度が群を抜いている。

そのビジュアルの強さがコケ脅しと捉えられ、小説として評価の高い原作と物語の相違点も指摘され、前2作とも比較されて、映画としての評価は若干低いが、今現在見ても充分に及第点。

私は原作も読みましたが、原作小説よりもせつない終わり方の映画版の方が好きです。

そして3作目ともなると石坂浩二の金田一耕助にも、ちょっとした変化が…。
非常にアクティブで、森の中を走るわ、ターザンよろしく蔓にぶら下がるわ、警察と一緒になって捜査に加わり、犯人を捕まえようと努力する。
そして何と、金田一の仄かな恋の予感もある。

復員船の中で病死した戦友の故郷・獄門島を訪れた金田一耕助。
時を同じくして島の網元である鬼頭家三姉妹連続殺人が勃発する。
本作でも戦後の混乱が生んだ凄惨な悲劇に金田一の推理が冴える…。

プロットは絶海の孤島という閉鎖空間で繰り広げられる、アガサ・クリスティ作品のような典型的「クローズド・サークル」。
そこに日本独自の家督制度への執着、愛憎に彩られた人間模様が秀逸です。
横溝作品伝統の、ややこしく入り組んだ相関図も言わずもがな…。

本作を端的に言うとしたら、「そして誰もいなくなった」ではなく、「そして跡取りがいなくなった」でしょう。(笑)

島では権力を握る鬼頭家本家(本鬼頭)と本鬼頭から独立した家(分鬼頭)が対立していた。
本鬼頭の千万太と分家の一は共に徴兵されていたが、一の生還の報が一人の傷痍軍人からもたらされる。

一方の千万太は復員船の中で死亡してしまい、金田一はその訃報を伝えるためやって来た。

獄門島行きの船には戦争で供出した(溶かして砲弾になるはずだった)釣鐘が積まれている最中。
金田一はその場にいた島の住職・了然和尚に千万太の遺書を渡す。
一緒に獄門島に渡り本鬼頭へ。
本鬼頭をまとめている一の妹早苗、千万太の腹違いの妹、月代・雪枝・花子。

(早苗と三姉妹の違いが、登場から明らか。極端な演技の差異もそうですが、三姉妹の今でいう「病みメイク」がビジュアル的に華やか。)

そして女中の勝野を紹介される金田一。
本鬼頭の当主与三松は心を病み、座敷牢に隔離され早苗の世話を受けていた。
滞在中は了然の寺である千光寺で世話になることに。
そこで金田一は三つの俳句が書かれた屏風を見つける。

前2作と同様、この「俳句に見立てた殺人」が行われると(…観客は気づくが)気づくが、字が達筆すぎて金田一は読めず、結構焦らされる。
しかし、俳句が読めると一気に謎が解け、クライマックスにスピード感がある。

本作でも見立て殺人が行われるが、前2作に負けず劣らずな凄惨さを誇る。

寺の庭の梅の木に逆さ吊りにされた花子。
崖に置かれた釣鐘の中から発見される雪枝の絞殺体。
(発見後、鐘の重みで首が切断されて宙を舞う!幼い頃、トラウマでした…)
祈祷所にこもり、犯人を呪殺しようとした月代も絞殺体で発見される。

それらを耽美的に魅せる市川監督の映像センス。
三姉妹の派手な着物が陰惨さを引き立てる映像の完成度の高さ。
今見ても「美学」という物を感じる。
現在の邦画には、それがないのが残念。

殺人を始めたのは島の住職・了然だった。
了然は亡き嘉右衛門から今回の連続殺人を託されていた。
先代当主の嘉右衛門は息子与三松の後妻お小夜を強く憎んでいた。
(お小夜は元はドサ周りの芝居役者、他所者なのに気が強く、邪教の祈祷をするのも嘉右衛門は気に入らない。
嘉右衛門の目の前で自ら呪文を唱えて産気づくシーンはなかなか強烈。)

その子どもである三姉妹には、絶対に本鬼頭を継がせたくなかった。
(三姉妹は知的障碍のように描かれているが、両親とも精神を病んで、島では忌み嫌われ、ロクな教育を受けていないと考えると、何だか不憫…。とても綺麗なのに。)

嘉右衛門は、もし千万太が戦死した場合は、分家の一に後を継がせようと考えており、そのために邪魔な三姉妹を俳句になぞらえて殺してほしいと、了然ら島の実力者に言い残して亡くなった。
(原作では主犯格が了然、共犯は医者と村長となっている)

千万太の戦死、一の生還、そして釣鐘の返還。この内ひとつでも欠けていたら事件は起こらなかったと了然は語る。

同じ日に揃った三つの条件に了然は嘉右衛門の執念を感じ、花子を殺害、それを目撃した傷痍軍人をも手にかけたのだった。

そこへ一の戦死の報が舞い込む。
傷痍軍人は謝礼目当ての詐欺師だった。
亡き嘉右衛門の遺志に添えなかったこと、殺人が意味がないものとなったことに愕然とし、崩れ落ちる了然。

しかし、雪枝と月代殺害の犯人は別にいると金田一は言う。
それはアリバイの無い女中の勝野だった。

(この勝野の共犯が原作との大きな相違。原作から大胆な犯人替えを行っていて、公開当時の大きなセールスポイントだった。
同時期にTVの「横溝正史シリーズ」で「獄門島」を放送しており、そちらは原作に忠実だったため差別化を図る意図があったとか…。
それ以外に、市川監督は「最も犯人らしくない者を犯人とする」法則を定めており、それを絶対に曲げたくなかったそうだ。)

勝野は嘉右衛門の三姉妹殺害計画を聞いてしまっていた。
勝野は幼いころ、貧しさに母親と土地を離れた旅路の途中、瀕死のところを了然に助けられ、本鬼頭での働き口を紹介された恩があった。
(どことなく「砂の器」の親子を連想させるのが、また不憫…)

成長してから嘉右衛門に手籠めにされたが、表立って妾の立場になることもなく、下働きを続けていたのである。
(嘉右衛門役の東野英治郎は、当時「水戸黄門」の光圀公。「黄門様がこんな酷いことをするなんて…」と、子ども心にショックだった思い出がある。)

実は一と早苗の兄妹は実は嘉右衛門が勝野に産ませた子であった。
そのため、事件が始まると勝野は我が子である一のためと、了然の罪を被って恩義に報いるために、残り2人の殺害を実行したのだ。

早苗は勝野を庇うため証拠品を隠し、さらに一連の事件の疑惑を与三松に向けるためわざと彼を逃がした。

ずっと叶わなかった親子の名乗りを果たす勝野と早苗。
(「お母さん!」と叫ぶ大原麗子の頬を涙がつたう。何と美しい…)

そこへ息子の一の戦死の知らせが入る。
勝野の思惑も徒労に終わってしまう。

勝野はそっと本鬼頭を抜け出し、了然と合流して崖に並び立つ。
(この時の阿吽の呼吸…了然と勝野の間にも恩義以上の何かがあったと想像できる)
何か大きな力に動かされてきたと、事件を振り返る了然。
(この時、グッと勝野の身体を引き寄せる了然。恋心が見え隠れするのがイイ)
そして二人は手を取り合い、断崖から身を投げた…。

島という極端に狭い場が、血縁だけでなく濃密な人間関係を強調し、登場人物それぞれの思惑が複雑に絡み合う。

昔、流刑島であったことから、いわゆる「部落根性」「島国根性」に近いモノが島民の根底にある。
人間関係が希釈された都会ではピンと来ないかもしれないが、田舎者なら良く分かるはず。

犯行が単独犯ではなく、複数犯だというのも本作の大きな特徴。
了然と勝野の投身自殺は、罪を償うというよりも、「心中」に見える。
原作の村の実力者の男性だけの犯行よりも、映画版の男女2人の犯行の方が「悲恋」の要素があり、物悲しく、せつない。
もう少し、この2人の密かな恋の場面があれば、もっともっとせつない話になったはず…。

せつない場面は、もう一つ。
原作では、金田一耕助がヒロインの早苗にほのかな恋心を抱いているような描写がされている。
金田一耕助一世一代のプロポーズである。
早苗に「一緒に島を出ませんか?」と原作ではいうのだが、放浪の天使、石坂金田一にはそんな男らしい台詞は似合わない。
映画では早苗が「島から連れ出して欲しい…。冗談ですわ…。」に変更。
こちらの方が、早苗の芯の強さを表現していて良い。

それにしても、早苗役の大原麗子がとても可憐で美しい…。
「佳人(美人)薄命」「薄幸の美女」とは良くいったモノですが、清楚で儚い美しさなのに、凄みも魅せる大原麗子。
シリーズの中で一番ヒロインらしいヒロインだろう。

本作は豪華な女優陣の競演も見もの。
ひたすら耐える女であった司葉子。
眼力がすごい魔性の女、草笛光子。
艶っぽさが匂い立つ蠱惑的な大地喜和子。
三姉妹の美しさも華を添える。
長女はお肌ピチピチのデビュー当時の浅野ゆう子。

事件の背景には、戦後の混乱が大きく関わっており、事件をきっかけに一層悲劇が加速する。
それが特にか弱い女性にとって「遣る瀬無い」結末となるところが、石坂金田一シリーズの魅力である。
その分、金田一の心の優しさが無情な時代で際立つのである。

ラストシーンは獄門島を後にした船上で、船酔いする等々力警部に金田一が酔い止めの薬を渡そうとする。
多分、船の上で警部は薬を吹いたのだろうなぁ…(笑)

追記
「キチガイじゃが仕方が無い。」
三姉妹で最初に殺された花子に向かって呟いた了然のセリフである。

これは「鶯の身をさかさまに初音かな」(宝井其角)という俳句に見立てた殺人。
了然としては、この句の季節は春なのに、殺害は梅の花が咲いていない秋だった。という事を言っていた。

「キチガイ」は「気違い」では無く、「季(節)違い」の意味なのだが、この絶妙な掛け言葉が近年では「不適当」という事で、放送局の判断で放送が控えられている。

日本語の持つたおやかさを絶妙に取り入れた文学及びそれを映像化した作品が、単に表面的な言葉の面だけで問題視され、多くの目に触れ難い状況に追い遣られてしまったとしたら、個人的には非常に残念だ。

もう昭和の名作がTV放送では見られず、レンタルや配信に頼るしかないのだろうか?
鑑賞後にそんなことも考えてしまったのである。
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