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あゝひめゆりの塔のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

あゝひめゆりの塔(1968年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

池上彰が8月6日のニュースで「戦後75年、広島被爆者の平均年齢が83歳となった。今後被爆体験をどう伝えるべきか?」と語っていた。
私には被爆者体験だけでなく、「戦争体験そのものをどう語り継ぐべきか?」に聞こえた。
今言える答えは「戦中戦後を知る者が作った映画を見るべきだ」としか言えない。
映像に現れる細部の拘り、感情の揺らぎが当時の人々の記憶と近いに違いないからだ。

過去に映画化された「ひめゆりの塔」の物語の中で、私は本作が最も好きだ。
演出の視点はあくまでも少女たちだ。
他の作品は教師側の苦悩も大きく描いているが、本作は終始、少女たちの姿をクローズアップしている。

もし、年端も行かぬ若者が戦争に巻き込まれたならばどうなるかを一貫して描いているからだ。
それは、戦争が起こったならば、平和と日常を突然剥奪されるだろう私たちの姿でもあるからだ。
また今、戦争になどなれば日本人全員がひめゆり学徒隊のようになってしまうのだろう。

(そして吉永小百合以下、和泉雅子や梶芽衣子、音無美紀子ら、女優たちが現在のモデル出身の均整のとれたスタイルではなく、純日本人体型で、まだ素直に学生に見える年頃であったことも加えておきたい。)

戦後20年ゴーゴークラブで一人の青年(渡哲也)が、沖縄で散ったひめゆり学徒隊を偲ぶ。
このイントロダクションが象徴的で、かつ作品の方向性を教えてくれる。
「平和ボケした若者たちよ!戦争の悲惨さを忘れるな!」だ。

本作の結末が悲惨なことは分かっている。
戦争を知らぬ私たちは、本作の少女たちのように戦地に投げ出されたならば、叫き、取り乱し、その過酷さに慣れていき、最後には決断を迫られるのだろう。
人間の変化が淡々と描かれるからである。

冒頭で描かれる昭和18年の沖縄の学生たちに、まだ戦時下の緊張はあまり無い。

前半は青春映画だ。
日活映画らしく吉永小百合を前面に押し出し、青春コンビの浜田光夫を配し、米軍が上陸してくるまでの、とても普通な女学生の将来の夢や恋模様が生き生きと描かれる。

しかし、翌年になると米軍が迫り、疎開の子供たちが乗った対馬丸は、撃沈されてしまう。
次第に戦争の暗雲が立ち込める訳だが、この前半の清く正しく平凡な日常が、ありふれた幸せが、その後の悲劇を際立たせるのだ。

記録映像を交えて、戦時中の世界観に没入させていく。
カラー映画であったなら、後半はただひたすら残酷描写が強調されるに違いない。
これはモノクロで正解だ。

戦時下の日常生活を丹念に、そして淡々と描いて行く。
そして、戦争で当たり前のように身近な人が死んでゆく現実を淡々と表現している。
決してお涙ちょうだいだけの映画ではない。

肉親を亡くしても、自分ばかりがいつまでも悲しんではいられない。
今はお国の一大事。皆も同じ境遇だ。
何かお役に立たねば…。

そして昭和20年、教師を目指していた女学生達は、従軍看護婦「ひめゆり部隊」となり戦場に送られる。

史実として知ってはいるが、武装していない女学生が、遠くの戦場の兵士と同じような過酷な目にあっていたことに驚く。

遂に米軍は沖縄に上陸、激しい戦闘により野営病院は重傷者で溢れかえる。
阿鼻叫喚の図だ。
可憐な少女たちは兵士たちの汚物と死に塗れていく。
切断した負傷兵士の手足が爆風に舞い、果実のように木にぶら下がる絵面はシュールだ。

女学生には物資の運搬すら命がけの任務で米軍機の攻撃により負傷する者、命を落とす者、あまりの凄惨な状況に発狂する者も出る。
動けない者は青酸カリ入りの牛乳を飲んで自決する。
この時の和泉雅子の目は忘れがたい。

戦争映画は数あるが、本作ではそんな悲惨でグロテスクなシーンよりも心に刺さるシーン目にすることができる。

それは敵国の攻撃から退却して(逃げて)いるにもかかわらず、近くに落ちた爆弾、爆撃の衝撃、音にも反応せず、ただ黙々と歩く姿だ。

当初は爆弾一発ずつに恐怖を感じ、反応していたにもかかわらず、後半には、日々の攻撃に慣れてしまったのか、ぴくりともしない少女たち。
人間の慣れとは恐ろしいものだと悲しくなる。

戦争の犠牲者を貶めるつもりはないのだが、昔の戦争映画を見ると、常につきまとう違和感がある。
それは「生きるという選択肢がないこと」だ。
「戦中戦後を知る者が作った映画」にはそれが共通しているように思える。

1億総玉砕を唱え、方向性は間違っているものの国民が団結していた時代。
悪い軍人もほぼいなくて、日本の村社会が美化され、アメリカ人を見たこともない人が鬼畜米英を信じている。
(もしかしたら、「生きたい」と願う描写は戦時中に不自然だと、許されない時代なのかもしれない)
捕虜になってでも「生きるという選択肢」を選ばなかった彼女たちには合掌を捧げるしかない…。

冒頭、戦後たかだか20年でもう戦争の悲惨さを忘れる若者たち。
戦争を知らないから仕方ないのかもしれないが、現代も今後も、日本が平和ボケになってきたら必ず見なければならない作品の一つだ。

もしも戦争が再び起こったならば、理由はどうあれ、「死ぬのは怖いから、自分は兵士として戦争に行かない」という若者は多いはず。
しかし、一度戦争が起これば、戦争に行かずとも日常が変わる、平和が奪われることは間違いないのだ。
ひめゆり部隊のように、国の為に何かしら行動を求められるのだ。
若者の反戦教育には、本作を鑑賞させるといい。

追記
それにしても、若き日の吉永小百合は可憐だ。
教師を目指すしっかり者の姉で、学校でもリーダーシップを取る優等生。
しかしながら、決して奢らず、溌剌として周囲に優しい。
悲しみを飲み込んで、明るく振る舞う。
時におっちょこちょいな失敗もするし、男性の冷やかしに赤面する。
本当に可愛らしい。

もし公開当時、私が10代の少年だったなら間違いなく惚れてしまう。
「1000年に1人の美少女」というキャッチコピーがもし60年代当時にあったなら、それは吉永小百合にこそ相応しい。

こんな可愛らしい女性が戦争の犠牲になるのだから、なおさら哀れだ。

沖縄本土決戦の日、または終戦記念日に、この映画をTV放送することを続ければ、サユリストも永遠に増え続けていくことでしょう(笑)
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