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彼方のうたのshxtpieのレビュー・感想・評価

彼方のうた(2023年製作の映画)
3.5
ポレポレ東中野の上映の最終日に、すべりこみで見た。

多摩川沿いの京王線沿線の風景も、キノコヤも、前作から続投した俳優たちも、杉田協士ユニバースを完全なかたちでなしていて、圧倒された。画、演出、演技の間合いやテンポ、画面の中に漂い観客を包みこむ空気感も、すべてが杉田の世界だ。終映後のトークイベントでの杉田いわく、『春原さんのうた』の2年後をイメージしていたという。まぎれもなく、『春原さんのうた』から地続きの世界。

杉田の映画は、とても霊的だ。パンフレットに載っている編集の大川景子との対談では「スピリチュアル」という言葉も現れたし、TOKIONのインタビューでは「SF」についても語られている。なんというか、画や演技や音、観客の前に提示されるものすべてが、ふわっと霊的なもの、この世ならざるなにかを纏っている。霊的なもの、この世ならざるもの、目に見えないもの、そこにいないなにかを、積極的に映そうとしている。

それは、やはり、杉田が「不在」を映す映画作家だからだろう。杉田映画については「喪失」について常に語られ、今回の作品にまつわる取材記事でも「喪失」という文字が何度も現れる。しかし、私は、杉田の映画は「喪失」の先にあるもの、「不在」を、「不在の存在」を描くものだと思う。なにかがそこにない、ことがある、というか。『春原さんのうた』に顕著だったものが、『彼方のうた』では洗練されていて、映画に伏流するものとして自然に描かれている。その手つきが、あまりにも素晴らしい。『春原さんのうた』では「不在」の主が映されてしまういくつかの場面に不満があったが、『彼方のうた』では「不在」が徹底されている。

この映画では、小川あんが天才的にうまく撮られていて、『春原さんのうた』における荒木知佳とおなじく、主役を張る俳優のキャスティングとその撮りかたが抜群だ。それは、杉田の俳優、人間に対する視線そのものだと思う。

『彼方のうた』における小川は、天使である。これは比喩ではなくて、映画の中で小川は労働や会話をし、周囲の人々と関わり、社会の中で生きている、たしかに実在しているのだけれど、小川はどこか実在感のない虚構的な天使として映画の中にいる。中村優子や眞島秀和を遠巻きに、あるいは近くから見つめている、眺めている、ただ見ている。それは、事のなりゆきや時のうつろい、人が生きて死んでいく様を、慈愛と庇護の思いを込めて眼差す守護天使の視線である。というか、杉田映画で映される人々は、総じて天使であると思う。誰もがどこか、現実から遊離していて、地から浮かびあがっているように見える。

天使としての小川は、中村や眞島としばしば直接的に関わり、交わりながらも、その端緒、きっかけになっているのは、ただ見つめることだった。小川の守護天使の視線は、地縁や血縁のコミュニティが壊れて朽ちはてたこの国の、最後の頼り綱である。ほどけた紐帯を結びなおすのは、無関心を捨てて、ただ見ること、見つめること、視線を送ること、私たちはまずそこから始めるしかない。だからこそ、杉田映画のコミュニケーションは、どこかたどたどしくよそよそしい。他者とのたしかな距離感、べったりと密着し粘着した関係ではないもの、親密になりすぎないディスタンスが、人々の絆や縁を逆につなぎなおすことになる。

『彼方のうた』は、視線の映画だった。メインビジュアルに写った3人がそれぞれ別々の方向を見ていることにも、それは表れている。カメラを見る(=スクリーンの前にいる観客を見る)、フレームの外を見る、ほかの俳優を見る、様々な視線が、見ることと見られることが、この映画では重要だった。見事だったのは、小川が赤子を見ている様子を真うしろから頭だけで映したショット。うしろ頭が、その先にある視線を語っている。

強烈なショット、記録された音がたくさんある。冒頭の、中村が虚空を見つめているショット。キノコヤで眞島で泣き崩れるシーン。その直前の、小川の発声。オムレツがぐちゃぐちゃと立てる音や咀嚼音。小川と中村が橋の欄干から川を覗きこんでいるのを背後から捉えたカット。一瞬、ロードムービーと化す中盤も、2人乗りのバイクをうしろから撮っているだけなのに美しい。小川が街中で立ちつくすミドルショット。そして、ラストカット。映像に収められた時間の豊かさ、そこに刻まれた、杉田の演出によって醸成された空気、俳優の演技のすさまじさ。

帰り道にsekifuの新作、というよりもほぼ唯一のアルバム『矢川』を聴いたのだけれど、あまりにも合いすぎた。
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