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皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇のshxtpieのレビュー・感想・評価

4.0
なつかしい。イメージフォーラムでかかっていた。『カルテル・ランド』と同時期だった記憶がある。『ボーダーライン(Sicario)』とNetflixの『ナルコス』も2015年で(『ボーダーライン』の日本での公開は2016年)、この頃は麻薬戦争に注目が集まっていた。もちろん、現在もドラッグ・ウォーは進行中だけれど、日本で報道されることは少なくなっている気がする。

ナルコ・コリードについて書くために、この『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』を見た。ナルコ・コリードというのは、メキシコのアコースティックな伝統音楽にのせて麻薬カルテルの暴力的な生きかたやその文化を歌うスタイルで、2023年になって、いきなり世界的に大流行した。この映画は2013年に製作されているので、そのちょうど10年前、メキシコ系の間で人気になってきた頃のはなし。そして2023年、ペソ・プルーマの大ブレイクに象徴されるように、コリードはもはやメキシコ人やアメリカ西海岸や南部のメキシコ系の人々に愛されるローカルなものではなくなった。私も、去年はペソ・プルーマに夢中だった。

さて。この映画にはうさんくさい派手な邦題がついているけれど、原題は直球で“Narco Cultura”、つまり「麻薬文化」。英語のウィキペディアに“Narcoculture in Mexico”という項目があるように、良くも悪くも、麻薬カルテルの強大化には、たくさんのカルチャーがまとわりついている。

映画は、メキシコのシウダー・フアレスで働く警察官のリチ・ソトと、LAでナルコ・コリードを演奏するバンド、ブカナス・デ・クリアカンの歌手であるエドガー・キンテロへの取材を交互に捉えて、構成されている。

リチは、かつてあった平穏なフアレスの姿を取り戻そうという郷土愛から、麻薬カルテルに対抗して任務についている。殺されていく同僚たち、カルテルに脅されて職を辞した上司たちの様子も映され、リチは家族に心配されながらも仕事を続けている。ほかに仕事もないと言い、その表情や語り口には、一筋の希望も感じられるものの、諦めと抑鬱、停滞感と疲労感が滲んでいる。まるで34歳に見えない老けこみかたにも、苦労が見える。

リチのパートは壮絶である。死体がバンバン映り、道には血が流れている。カルテルは警察をおそれず、カルテルから怯やかされる様も語られ、地元の住民たちも警察へのあきれや不審を語る。警察はカルテルに買収され、癒着していることが多いこと、カルテルが警察を殺人などで脅して、警察もそれに怯えているからだ。

一方、エドガーのパートはどこかお気楽というか、LAという安全な土地でナルコ・コリードを歌う彼は、メキシコの危険さを、身をもって理解してはいない。途中でジャーナリストのサンドラ・ロドリゲスへのインタビューも挟まれるが、そのため、かなり批判的に映されている。

エドガーは、メキシコで起こっている実際の麻薬戦争の凄惨さを理解してはいない。彼はクリアカンに行ったことがないのにバンド名にクリアカンとつけ、歌詞はネットで集めた情報から書き、LAのメキシコ系マフィアとつるんで、彼らから頼まれた曲を書いて喜ばせ、小遣いをもらっている。幼い子ども2人を抱えるエドガーは、「生活のためさ」と語る。

エドガーは、「クリアカンに行ってみたい」とたびたび語る。ナルコ・コリードの大御所コマンダーを前にして、「やっぱり現地のスラングや文化はちがう」と感銘を受けている様を隠さない。「本場」を知らないエドガーは、それに憧れているのだ。しかし、彼の妻(すごく綺麗な人)は、「そんな危険な土地になんて行きたくない」と反対する。エドガーはバンドを率いて、最終的にクリアカンへ赴く。

ナルコ・コリードの歌詞には、自動小銃AK-47やバズーカなどの武器が繰り返し登場し、ステージ上のミュージシャンも、時には観客もバズーカを抱えている。暴力賛美なのか否か。映画はその部分を、文化の当事者や彼らに夢中なオーディエンス、サインをねだる女子高生たちなどのインタビューを通して、強く問う。それらに対置されるのが、フアレスとその人々のために働くリチだ。なんというおそろしい構図。ものすごい映画である。

私もコリードをおもしろがっているばかりでいいのだろうかと、去年一年を通して抱えていた疑問と迷いに、もう一度向き合うことになった。
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