るるびっち

フランケンシュタインのるるびっちのレビュー・感想・評価

フランケンシュタイン(1931年製作の映画)
5.0
「It’s alive!!」
満点以外ない。
何故ならフランケンシュタインの怪物のイメージを決定づけた作品で、未だに我々は本作のボリス・カーロフの演じた怪物に囚われている。
これを超えるイメージを作り出せない以上、理屈で言えば現時点での最高点になる。

フランケンシュタイン博士(御存知でしょうが、フランケンシュタインというのは博士の名前で怪物に名前は無い)は、科学者というよりクリエイターである。
クリエイターというのは、創作者と造物主とも言える。マッドサイエンティストである以上にクリエイティブな情熱に囚われている。
実際に創造的であり、しかも怪物にとっては生みの親として神なのだ。

映画が原作を超える瞬間は、恐らく無垢な少女との出会いのシーンであろう。水辺に花を浮かべる少女に出会った怪物は、喜んで彼女を水に浮かべてしまう。
「可愛いものは水に浮かべるのよ」と少女が花びらを浮かべるので、可愛い彼女を水に浮かべた・・・と何かに書いてあった気がするが、見直すとそんな台詞はない。
花びらが無くなったので、無邪気に彼女を浮かべただけだ。
誰からも、生みの親の博士からも否定された怪物を直感的に理解した少女。
その少女を無知から殺してしまう。これ以上の悲劇は無い。
原作には博士の苦しみも、見捨てられた怪物の苦しみも描かれている。世界から否定される苦しみ・悲劇である。
それは相手を呪えばよい。世界を呪えばよい。
しかし唯一自分を受け入れた相手を、自己の無知で殺してしまう。
誰を呪えばよいのか・・・これ以上の悲劇はない。
少女の名前がマリアなのも意味深だ。

原作者メアリー(マリアのドイツ語読み)を抹殺したとも言えるし、反キリスト的行為とも言える。
個人的には、怪物自身がキリスト的な原罪を背負う存在と思える。
映画には博士の父親が出ている。父親と博士。博士と怪物。二重に父と子の関係性を映していることからも、キリスト教的示唆に満ちている。
フランケンシュタイン博士が神なら、怪物は神の子なのだから。

続編『フランケンシュタインの花嫁』では、怪物は自分の孤独に対して涙を浮かべる。待望のパートナーとしての花嫁は何とイケメンのフランケンシュタイン博士の方を気に入り、醜い怪物は拒否される。
同じ死体から造られた仲間なのに、その死体仲間からも拒否されるのだ。
彼の孤独は人間はおろか、同じ人造人間でさえ埋める事は出来ない。
唯一の理解者を殺した彼の孤独は、ここで感極まれる。
憎いはずのフランケンシュタイン博士に「生きろ」と言い。(続編では言葉を少し覚える)
自らの孤独にはケリをつける。

しかし思うのだ。同じく死体から造った花嫁は美女なので、彼もイケメンに造ってもらう事は可能だったんじゃないかと・・・
もし、そうならチャラい怪物が出来てたんじゃないかな。マリアを水ではなくベッドに浮かべるような。(ロリコン・モンスター=ロリモン)
「キミ、カワイイね~」言うて・・・それこそ悲劇だ。
イケメンでなく、醜い顔だから永遠の名作なのだ。
今でもフランケンシュタインの怪物と言えば、カーロフのイメージ。
他の誰も超えられない。デ・ニーロでさえも。
「It’s alive!!」今も彼は生きている。
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