るるびっち

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーのるるびっちのレビュー・感想・評価

3.8
漫画家の自殺があり、今後は原作を自由に改変することは、昔のようにはできないだろう。
本作も、今なら原作ファンのクレームが集中砲火しそうだ。
本作によって、押井守監督は映画作家として認められた。
今なら「自分のオリジナリティを、他人の褌で取るな」と批判が来る。
この頃はオタクという言葉が広がりだした頃で『フィルムマラソン』というオールナイトのアニメ上映イベントや、コミケなどが広がった。
アニメ作家も富野由悠季、『マクロス』の河森正治などが注目。
宮崎駿は一部マニアには『未来少年コナン』で有名だったが、『カリ城』は『Mr.Boo!ギャンブル大将』と併映されて不評だった。
SF人気の時代に古びて見えたのだろう。大衆は当てにならない。

アニメーターやデザイナーも注目され、安彦良和、永野 護、パースを強調した金田伊功、板野サーカスの板野一郎など。
二次創作作家という扱いではなく、オリジナリティある作家として認知されていたのだ。
今は脚本家なんて、ただの二次創作屋位にしか思わぬ『原作原理主義者』が多数なので、随分状況が違う。
本作の押井も原作レイプとは叩かれず、オリジナリティを歓迎されて映画作家として弾みを付けた。

前半は、肝心のラムとあたるが脇役に甘んじている。
前半中心になるのは、この世界に最初に疑問を呈した温泉マークとサクラ先生だ。
本来、脇役の連中が中心で話を進めている。
中盤は押井の分身であるメガネが、この世界について世界観と人生観を淡々と述べる。
押井が一番やりたいのは、この部分であろう。
現実と虚構に相違はないとか、認知とは何かという論旨を、彼は常に述べている。押井の作家性の基本スタイルである。
丁度オタク連中がサブカル化して、哲学的・衒学的なことを言いたがる潮流に乗ったとも言える。
オタクもマウントとりたいのだ。
とはいえ押井もまだこの時期はサービス精神があり、一般人にも解るように話を作っている。
得意のうんちくも、必要最小限に抑えている感じだ。

ラストで一気にあたるが活躍する。主人公らしく彼だけは他の連中とは違う反応を示し、敵役も苦労する。

『不適切にもほどある!』というドラマがあるが、ここで描かれてるものは昭和の男女の感覚である。
あたるが「好きな人を好きであり続けるために、その人から自由でありたい」という理屈は不適切にもほどがあって、今の時代では通用しない。
ダーリンや皆といつまでも楽園のような日々を過ごしたいというラムの願いも、宇宙人というよりは昭和の女の願いだ。
ギャルという言葉すら古びた現在、若い女性にはピンとこないだろう。
あたるをダーリンとして立てる必要がどこにある? 自分が楽しめばいいだけじゃん。
それくらい時代は変わってしまった。

前作『うる星やつらオンリー・ユー』では無難な作品を作り、伊丹十三に「甘いケーキ菓子のような映画」と毒された。
それが作家性を打ち出したきっかけである。
当時は原作何するものぞ! 原作なんかくそくらえ!
という、作り手の情念が良しとされていたのだ。
アニメを単なる工業製品ではなく、アニメ作家側の血の通ったものにする為に原作を改変するのもアリだった。
アニメ作家たちが注目されてきた時代だったので、それが通用したし、むしろ歓迎された面もある。
何にせよ作り手側の情熱が大切で、原作通り作ったからと言って面白くなるとは限らない。ただの工業製品に堕することもある。
逆に情熱込めて自分の世界に引き寄せた場合、原作ファンが納得するとは限らない。
作品内の世界以上に、現実はややこしい。
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