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シンドラーのリストのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

シンドラーのリスト(1993年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 「ジュラシック・パーク」と製作時期が被っているその作風の対比を見たくて、久々に鑑賞。やっぱりところどころ本当にキツくて泣いたりした。にしてもなぜこの両極端の横断をスムーズに行えてしまうのだろうか。映画ってその時期に色々上映されてるわけで、それをたまたま一人の監督でも担えてしまう才能の持ち主だったから、としか言えないか。

 「戦争」に生かされるドイツ人のシンドラー、彼には「役に立つ」ものが必要なだけ。それがたまたまユダヤ人だったのだが、描かれるユダヤ人の生きることに対する知恵もまた目を見張るものがある。ゲットーで一掃されてしまうが、そのゲットーの中を隠れ蓑とする知恵の数々はサスペンスフルだ。時に子供でさえドイツ軍を騙す(まさにスピルバーグセオリー)。「シラミのフリをすると寄ってこない」という些細な知恵も「良いな」と思わせるものがあった。それを言った会計士のイザック・シュターンのある台詞はそんなユダヤの人々を上手く言い表している。ユダヤ人に起きた事件を詳細にシンドラーに語るシーンである。話の凄惨さに動揺するシンドラーに彼は最後こう言うのだ、「ただの話ですよ」と。今作のユダヤ人が”話す”シーンが多い気がした、それも直接はストーリーを進行させる説明的なものではない。”語ること”、これは「フェイブルマンズ」以降勝手に自分が解釈しているのだが、スピルバーグがその語ること、特に"物語ること"の重要さを自身が映画化する行為と同期してテーマとして作品内に織り込んでると思うのだ。今作の「ただの話ですよ」は、ユダヤ人の生き抜く知恵、アイデンティティさえも含まれているように思える。亡命したユダヤ人たちが映画産業に多く流れ入ったことは確かだが、それは土地を転々とする彼らユダヤ人が身につけた語る力との相性が良かったこともあるかもしれない。スピルバーグは今作において映画監督という物語る者、まさに「fable man寓話(を語る)人」であることの自覚とそのルーツとしてのユダヤ性を自覚したと思う。その後社会問題の語り手を積極的に担う理由にもなったのではないだろうか。

 そんな物語において、アーモン・ゲートという人物は強敵。それは冷徹なナチスというよりも、物語の通用しないカオスを体現しているからである。このカオスと物語の対立も「ジュラシック・パーク」のレビューにて書いた通りである。ゲートの殺戮には無作為で理論が無い、サボってるから殺されると思いきや、普通に通りを歩いていた女を撃ったりもする。その点でもユダヤ人対ゲートは物語対カオスの構図になっている。ゲートがユダヤ人女性に絆され一人語りしだすシーンはまさに、物語を自ら語り出す者となる予兆とも取れるのではないか(直後、暴行によってそれを否定するのだが)。

 シンドラーとゲートの類似。冒頭、シンドラーの顔が半分光に照らされ、半分は闇に沈んだ撮られ方をしているシーンが多い。それは印象として狡猾さを印象づける。しかし、その後ゲートが登場した時の一瞬ドキッとしたのは何故か。それは、彼らの容姿が似ていたからだ。そんな彼らが初対峙した時、ゲートの顔の半分は、シンドラーに適用されていたあの照明の感じなのだ。またシンドラーとゲートの髭剃りシーンをクロスカットすることで、印象をダブらせている。それは、シンドラーとゲートはユダヤ人使いとしてほぼ同じ立ち位置だったからだ。その後、シンドラーはゲートに成りかねなかった自分を鏡のように彼に投影し(髭剃りは鏡に対峙する)、自己を改めていく。

 赤い服の少女。このシーンは際立つ赤、無垢な犠牲者的側面が強調されすぎていて、悲劇よりもその強調に目がいっていた。しかし南波克行編「スティーブン・スピルバーグ論」の大久保清朗著「夜の暗がりの寄る辺なさとともに」を読んで、それだけの意味ではないと考えを改めた。ここでは家族という擬似モデルを通して血の繋がりの無い者がその親/子に自身を規定するという話である。今作におけるシンドラーのあのやや大げさに見えた驚愕は、不意に彼がその赤い服の少女を自分の娘かのように見たことだと述べられている。世代がうつろう中、我々大人が誰かを我が子のように思うことが、この世に必要なのではないだろうか。子供を撮るスピルバーグの姿勢にはそんなものを感じる。

 蝶番の男は何故撃たれなかったか。単にこれは映画における奇跡だと思う。史実に対する抵抗、広義で言えばタランティーノの歴史ものにおけるフィクションと同じである。映画だから起こせる奇跡。

 ラスト。演者と彼らの元になった実際のユダヤ人たちによる追悼シーン。昔は気がつかなかったが、これは虚構と現実を明確に区切るわかりやすい説明だったのだ。美化しているとか悲惨さが伝わらないという批判を承知で、ここでそもそも現実とは違うというのを示している。しかし、誰もが喪に服すことで、志向する方向は同じはずだと示している。

P.S.
 有名な今作のポスターは、誰かを救い出すために引き上げられる手であるが、子を引き連れる親の手とも見れると気づいた。赤い服ということはあの子であるだろうし、なんかグッとくる…。
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