ーcoyolyー

フリーダムランドのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

フリーダムランド(2006年製作の映画)
4.5
ジュリアン・ムーアが圧巻でそれを受けるサミュエル・L・ジャクソンも凄まじい。これ「チョコレートドーナツ」レベルで跳ねていい映画なのにジュリアン・ムーアとサミュエル・L・ジャクソンなのに何故こんなに埋もれてる?これもLiLiCo激賞で話題になって良かったはずだよ。

「マーシャル 法を変えた男」と同じような図式の黒人とホワイトトラッシュ女性の潰し合いに結果的になってたのでこれはもう構造的欠陥なんです。弱き者が他の弱き者になすりつける。それを高みから見て眉を顰めるエスタブリッシュメント。いつもの図式。

あのボランティア団体の人たちが本当にすごくて、あの人たちはこういう結果を予測しつつも肯定して寄り添うじゃないですか。誰からも見向きもされないと言う人に対してこういう傾聴姿勢ってここまで有効なんだなと驚きさえする。頭ごなしに否定され続ける人生で何を言っても信じてもらえない、と諦めて希望を捨てた人がこうなってしまうのを他人事として扱えない人たちのボランティア、綺麗事とは対極の。結果としては真逆の立ち位置に置かれてしまったとしても、そこに至るまでの過程で自分もそちら側にいたかもしれない、と思えるからあれできるんですよね。本当ならそこに行き着く前に寄り添えたら良かったとあの人らも思ってる。でもそうなってしまったからといって責めない、見捨てない。それは確かに警察にはできないことで、彼女たちの活動は非常に重要になる。自分の人生を投げ出してまで献身的にその活動に励むのは彼女たちもそれをしなければ命を繋げないから。生きる意味が見出せないから。彼女たちもまた切羽詰まった人たち。黒人と(白人中心)警察の間にいる聖人君子ではない、彼女たちも生きるためにそういう事件を利用している。マザー・テレサの言葉を生きて実践している人たちなんだけど、何故それができるかというと自分が救われたいから。その自分が救われたいという欲望を誤魔化さないからああやって寄り添える。この映画で自分の欲望を肯定できているのは実はこの人たちだけ。欲望を肯定できるって大切なのだなと思う。

この映画はもう出てくる人全員その人生を生きている。ドキュメンタリーのようにそこにいる。けど、本物のドキュメンタリーなら素人はこんなに自然体でカメラの前にいられない。その不自然さを整理して見やすく抽出するのが役者の仕事。実際にその人生を生きている人よりその人生がどういうものか伝えやすくメッセージを送れる人たち。自分の人生ではないからこそ、その人生がどういうものか的確に捉えて表現できる。これはボランティア団体の女性たちがまさにやっていること。自分の人生ではないからこそ客観的に向き合えて寄り添える。

この映画もっともっと世の中に観られて知られて浸透すべきものなんだけど、時期が悪かったのかな。BLMがどういうことかもわかりやすいと思うんだけどな。理解の一助になる作品なのにな。

白人女性のジュリアン・ムーアがデカいガタイの黒人男性である自分にビビらないのがおかしいといぶかるサミュエル・L・ジャクソン刑事。経験則で何気なく言ってるけどここにこめられてる現実って重い。それと同時に自分の肉体が男性であるというだけで他者を怯えさせているという自覚がある人どれだけいるだろうか、とも少々絶望的にもなる。日本の男性であっても男性であるというだけで怯える女性たちやその他の人々沢山いますから、男性は例外なくサミュエル・L・ジャクソン刑事のような意識、自分が他人を怖がらせ加害者になる属性を生きていると意識してほしい。それができたら社会は変わる。社会が変わるために必要なのはマジョリティの目覚めだから。
この映画でのジュリアン・ムーアは黒人フェチだけど、あの人は黒人が弱者だから、都合よく振り回せるからそこに逃げ込んでるだけじゃない。それはパパ活とか神待ちしてる家出少女を搾取するのと同じことで。白人女性が黒人好きというのとオッサンがJK好きというのは一緒。同じメカニズム。弱い者が弱い者ではなくなったらああいう風に利用されることもなくなるので、それはやっぱりボランティア団体の人たちのように自分と対等の人間だと徹底的に扱って地道に寄り添うしかないのかなと思います。感動ポルノとは一線を画した寄り添い方をできる人がどれくらいいるかと考えるとまあ難しいところではあるのだけども。

もう出てくる人全員自分のクソな人生を必死に生きていて、あの子も感情表現が不器用なだけだったんですよね、そういう環境にいたせいで。それでああいう結末になってしまったのだけど、ちゃんとした人が誰か一人でいいからあの生活に介入できていればきっと結末は違ったのですよね。やるせない。
ーcoyolyー

ーcoyolyー