ーcoyolyー

ポトフ 美食家と料理人のーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

ポトフ 美食家と料理人(2023年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

昨日、トラン・アン・ユンの新作観たいけどなぁ……と思いつつ買い物してるとパン屋さんで女性が歌う『CREEP』が流れてきまして。マイオールタイムベスト映画は『ヴァージン・スーサイズ』ですがマイオールタイムベスト映画シーンは紛れもなくこの曲が流れる中、トニー・レオンがやさぐれるトラン・アン・ユン『シクロ』の1シーンで。トニー・レオンとトム・ヨークとトラン・アン・ユンという繊細男子3Tの親和性の高さがとてつもないケミストリーを起こしているシーンで。その後野菜買いに行くと「これポトフとかにもいいですよ!」と根菜セットを勧められて。
あ、うん、わかった。諸々の都合整ったらな、行けたら行く、となった翌日。なんか奇跡的に条件整ってた。ちょうど行ってみたいと思ってた映画館に行けてしまった。

というわけで久々に映画館で映画を鑑賞しました。

一般的な売り口上としては『青いパパイヤの香り』のフランスを舞台にしたセルフリメイクというかリブートというか続編扱いで良いんだと思います。あれが幼年期から青年期の話だとすると今回はああいう人たちが老境に差し掛かったらこうなります、という話。
歳を取ったんだな、と思う。トラン・アン・ユンも私も。青いパパイヤの瑞々しさの代わりに芳醇なワインとなっている。あの瑞々しさを過剰に愛しがちな日本の観客にはどうなんだろう?あんな爆発力はないかもしれないけど、私はトラン・アン・ユンの撮る緑と光と水と土と風が感じられればそれで良いので、そこはそれなりに堪能しました。ちょっといつもよりコントラストが曖昧というか柔らかいというか緩いというか、心持ち絞りが甘い気もしたけど、やろうと思えばバッキバキにコントラスト激しくすることもできる人なのでこの照明のトーンや陰影の付け方は敢えてこうなんだろう。完全に印象派というか『草上の昼食』というかルノワールというか、みたいな辺りを想定して光の加減を作り込んでいるので輪郭が曖昧なふわっとした仕上がりになってるのはそういうことなんだろう。
印象派大好き日本人にはとっつきやすいんじゃないかなこの画作り。

と、まあそんなことをつらつら考えつつ私が完全優勝していたのはですね、冒頭の料理作りのロングシークエンスを観ながらナイフとフォークを使って食事してたんですよね!映画観る直前になんとなくフレンチトーストアイス&はちみつ乗せとホットのはちみつミルクオーダーしたらナイフとフォークが付いてきたんですよね。だから映画の中でナイフとフォークが使われてる時多くの人が口開けながら自分も一緒に使いたくなると思うんですけど、私は実際にナイフとフォークを使ってフレンチトーストを!そしてなんとアイスクリームを口にすることができたというわけです!冒頭のロングシークエンスを観ながらナイフとフォークを使ってアイスクリームを食べてたんです!これ本当優勝するからこれから観るみんなたちは準備しろよ!みんなたちもシネコヤさん行ってアイス付きのフレンチトーストをオーダーするんだ!手元にナイフとフォークがあるだけで全然違うから!アガり方半端ないから!あったかいパンの上に乗ってるアイスを、映画でノルウェー風オムレツを食べてるのと同じタイミングで口にできる体験は完全優勝だから!

(どういうものを頼んだのかはここから確認できます)
https://cinekoya.com/static/food

そういうオーダーのファインプレイはともかくですね、今回のトラン・アン・ユンは小津っぽいところは残ってるんだけど小津安二郎というよりマヌエル・ド・オリヴェイラになってましてね、ジュリエット・ビノシュが退場した後顕著にマヌエル・ド・オリヴェイラになってましてね、私はそこに大変胸を打たれましたね。

主人公、ジュリエット・ビノシュが存命の間はずっと厨房で「ごめんなさいごめんなさい」と思ってる雰囲気で心なしか縮こまっているように見えるんですよ。分かってますここは俺の居場所じゃありませんごめんなさいごめんなさいって。この人はこの家の主人で所有者なのでこの家の全てのものは彼のものなはずなんですけどそういうことじゃないんですよね。ここはそこにしか居場所のない、選択肢のない彼女の場所で。ここは彼の居場所ではない、彼もそれを痛感していて神聖なる彼女の場所を穢したくない。
彼はどこにも居場所がありそうで居場所がない人でさ。ボーイズクラブの中でも完全に馴染んでるわけじゃなくてちょっと居心地の悪さを感じつつ、でもその場を退場するほどでもなく微妙に座り悪いまま、でもその違和感が決定的な仕事をするわけでもなくそこに居続けるような人で。それでジュリエット・ビノシュはそのボーイズクラブに真正面から割って入って、対等に渡り合えて、でもそこの慰安婦にはなりません、という誇りを持って生きている人でさ。トラン・アン・ユンはジュリエット・ビノシュみたいになりたいんだろうけどなれない人で。なぜなら彼は男性だから。ボーイズクラブの内部に取り込まれる人だから。でも同時に彼は異邦人だからその徹頭徹尾ボーイズクラブの中の人、それも中心の人をさせられている主人公のようにもなりきれなくて。どっちの人物にも彼の要素はあるんだけどもどちらにもなりきれない人で、トラン・アン・ユンのそういう立ち位置やりきれないなと思う。この立ち位置は映画の中ではっきり明示してるんだよね。主人公二人が料理食べながら親密に話をしている時、その場にずっと立っている使用人の女の子がいて。この女の子はジュリエット・ビノシュのかつての姿でありトラン・アン・ユンそのものが佇んでいる姿であり彼の映画世界への距離感でもある。そしてそのやりきれなさや切なさや寂しさがベースにある諦念が私を惹きつけているんだろうなとも思う。漂泊する人たち。
ただ、トラン・アン・ユンはそうなるバックボーンの文脈が割と理解されやすいので彼の諦念はソフィアほどソリッドではなくて幾分マイルドですね。あのお姫様の孤独は本当に誰にも分かってもらえない孤独だけど、故国における戦争が原因で旧宗主国に避難するベトナム系フランス人の苦難の道のりは人口に膾炙しやすいですからね。そこで反感買うことも少ないでしょうしね。同じ境遇の人それなりにいるでしょうしね。だからもうあそこまでビンビンに予防線張らなくても免除されてる感ありますよね。だからマヌエル・ド・オリヴェイラもできちゃうという免責感ありますよね。

マヌエル・ド・オリヴェイラになってからのターンが本当に良いんですよ。あれだけ彼女の神聖な場所を穢さないようにオドオドビクビクしていた主人公がもうそれどころじゃないとなりふり構わず必死にその場で奮闘し始めてからがね、本当に良いんだ。現実から逃げようとして包丁叩いて今!今!今!で逆に現実に生きている感じがとても良いんだ。

そしてラストシーンの「料理人」からの「イェン・ケーに捧ぐ」な!あの二人の関係は夫婦ではない、ジュリエット・ビノシュが「料理人」を誇り高く選んだ直後に妻への感謝を捧げちゃうところな!その関係の呼び名なんてどっちでも良いしどうでも良いんだよ、リスペクトし合える関係ならどんな呼び名でも良いんじゃない?という多様性の提示な。どっちでも二者関係が素敵なものであることに変わりはない。それをどう呼ぶかなんて瑣末なこと、というメッセージをさりげなく伝えてきて『タイスの瞑想曲』流して静かにエンドロールに雪崩れ込むのと同時に涙ぐんでしまった。
この映画の作品中にトラン・ヌー・イェン・ケーの気配はずっと漂ってたの。彼女の姿は映っていなかったけど彼女の気配はずっと感じていた。なので最後の最後に彼女の存在が明示されたことに私は感動した。この映画の中の二人は夫婦じゃないけど僕たちは夫婦で、でもどちらの形でも良いんだよ、ってこれ一番伝えたかったことじゃないのかな。劇中の話だけではなくこの映画自体もやっぱりそういう関係の二人の共同作品だっていうさりげないメタ構成。あれはトラン・アン・ユンとトラン・ヌー・イェン・ケー二人の物語でもあったという。

帰り道、商店街で魚屋さんに寄って牡蠣を買って、肉屋さんに寄って「ポトフに使うのは何が良いですか」と聞いて切ってもらった豚の肩ロースを買って、ああ良い一日だった、と家でパンフレットを開いたら「?」という記述があって、「???」となってジュリエット・ビノシュ及びブノワ・マジメルのWikipedia項目見に行ったら「この二人元夫婦なのかよ!!!」と今日一番の衝撃を喰らって愕然としたままなのが今です。いや、うん、だからラストの台詞ああなったのか……………ああ、これ、役者の中の人同士の関係性知ってる人ら(≒フランス人)が文脈読んで楽しめたやつか………………あれよあれ、これ日本で言ったら大竹しのぶと明石家さんまが夫婦になるとかならないとか微妙な人間模様お送りしてるのを見守ってる感じよ………………あああ、そうねそういうことね。後ついでにブノワ・マジメル『ピアニスト』でイザベル・ユペールとなんだかんだあった金髪碧眼イケメン男子だったのね。最近『明日カノ』で毒親被害者の雪ちゃんと太陽くんが話題にしてたから観た人も多いんじゃないかな『ピアニスト』。でもなんかレオナルド・ディカプリオ同様恰幅良くなった今の方が断然生きやすそうだから全然それで良いんだと思う。良いんだと思うよ。
ーcoyolyー

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