ーcoyolyー

瞳をとじてのーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

"Soy Ana”に尽きる!
アナ・トレントによる50年越しの渾身の“Soy Ana”!!!!!
このシーンまでの2時間全部前振り!!!!!長え!!!!!でも耐えた甲斐がある爆発力が凄まじかったからこれから観る人頑張れここまで長いけど。

ビクトル・エリセはなんだかんだで誠実なんだと思ったわ。もうね、自分でも分かってるの色々。だけど今の自分ではこれが限界なんだと受け入れて今の自分でベストのものは出し尽くそうとしてた。それは偉いと思う。

正直ね、あそこに辿り着くまでの2時間で見所はアナ尊い!精霊尊い!聖霊尊い!やりたいビクトル・エリセとそのビクトル・エリセに感化された(もうほぼ「洗脳された」と言って良いくらいだ)観客からの押し付けをアナ・トレント(と珍しくアナ・トレント側に立つ観客の私)が「私だって自我があるちっぽけな一人の人間なんだわ!老けた?当たり前だろ私は精霊じゃなくてただの人間なんだから老けなきゃおかしいだろ!」とガン飛ばして衝突してるさまくらいでしたね個人的には。それでもその2時間を耐えて劇場で観た甲斐はあった。

アナ・トレントとビクトル・エリセ基本的にはそこまでずっとそういう殴り合いというか小競り合いしてんだけど、明らかに『ミツバチのささやき』で窓辺に立つシーンを重ねてる撮り方してるところからアナ・トレントのモード変わったんですよ。50代の現在のアナ・トレントの自我を引っ込めてあの当時の無垢な何も知らない象徴としての「アナ」に切り替えた。アナ尊い!精霊尊い!聖霊尊い!に乗っかった。彼女にとってもあの作品はそういうもので、ここでそれを出さなければ彼女の抱えているものもまた昇華されないというか、それが必要な時にはちゃんとそれを出してくる。ここはもう我々が何か物申せる領域じゃないです。あの作品を作り上げた監督と主役の間にあるものを簡単に言葉になんかできないし、しちゃいけない。そういう半世紀の重みを全て受け止めて乗せ切った上での万感の想いを込めた一世一代の“Soy Ana"です。

アナがその言葉を発した瞬間、その言葉を合図にこの映画に魔法がかかる。『ミツバチのささやき』の続きが始まる。
失踪して記憶を無くしたかつて俳優であった彼女の父、という設定の人物がフランケンシュタインでfantasma(怪物)でespiritu(精霊≒聖霊)に見え始める。あのアナと突然転がり込んできた精霊的存在との交流が突然戻ってくる。“Soy Ana"で閉じた物語の続きが半世紀経って突然再起動し出す。「精霊とアナ」であると同時に「父と娘」でもある物語が。
そうなんです。ここで突然動き出した物語は『ミツバチのささやき』だけではなくて、同時に『エル・スール』の中絶した物語の続きも始まるんです。世に出た物語だけではなく、ビクトル・エリセが手をつけたのに世に出せなかった物語の続きもきっと同時に始まってるんだと思う。私たちがついぞ観ることができなかった物語の続きが。

ああ、やり残したことにこうやってけりをつけにきたのか、これほどまでに心残りだったのか、と思う。今の自分の力では到底まとめ切れないことは分かってる、でもやるんだよ、ともがき苦しんでも彼なりの落とし前はつけにきた。庵野秀明がシンエヴァでやろうとしたことと同じなのか、と思う。庵野秀明があのクオリティで何とかああやって道しるべを示すことができたのはあのタイミングがギリギリだったのだろうな、と気づく。あの時点でああできた庵野秀明ほどのクオリティを提示することは今のビクトル・エリセにはできない。でもやったんだよ。自分で全て分かってるけど、でもやった。芸術家としてこれは恐ろしいほどの覚悟が必要だ。何も残さず綺麗に伝説的な監督として消えることだってできたのにその道を選ばずあえて現状を晒すことを選んだ。これはもう畏怖の対象でしかないですね。

クライマックスへ向けての道のり、主人公は精霊の記憶が戻ってくるように躍起になるんだけど、私はこれ必要なのかな?と思って。記憶を失った人というのはその記憶を思い出したら生きていけないくらいの強い衝撃があるから忘れてるんだ、という可能性もあるわけで。そういう人に対する想像力が欠如してない?とフラッシュバックに悩まされる人生を長く送ってきた私はその暴力性に怒りや不安や恐れという感情を抱いたのですけども。

まあでもこれ全部分かってるね。ビクトル・エリセはその暴力性全て分かってる。分かっててもこうやらざるを得なかったってことなんだろうね。ビクトル・エリセ本人ならこの状況でそう振る舞うことはないかもしれないけど、主人公はビクトル・エリセと違う人だからね。この主人公はそういう人なんだろうね。今回のこの主人公とは少し距離感あるよね。

分かってるからこそのあのラストカットだ。ぶん投げだ。
え?ここまでやってあんなオープンエンディング?ってなりますけどね、『ミツバチのささやき』も『エル・スール』も同じ終わり方してるからね、『瞳をとじて』も同じ終わり方をするのがビクトル・エリセ作品としての必然なんでしょうね。完全に『エル・スール』のあの終わり方引きずってますけどね、これはもうそういうものでそうでなければならないんでしょうね。だって私はあの映像を観た後の精霊さんの姿なんか見たくないもの。彼がどういう反応をするのか描きたくないし描けないんだってことも分かるもの。散々暴力振るわれた後のスナッフフィルムなんか観たくないもの。本当に暴力的だったし、全部分かった上で全力で殴り続けていた。その後の姿を晒してしまったらもうそれは娯楽として成立しないくらいの暴力だった。

だから、ビクトル・エリセから「後は皆さんご自由に」と放り投げられたものを私は受け取らない。その後の解釈をすることを拒否するし否定する。きっぱりと拒絶する。そしてその意思を尊重して予め選択肢に加えている程度にはビクトル・エリセは誠実だと思う。

水夫結びのシーンは『ミツバチのささやき』でアナと兵士が食べ物分け合ってるシーンを重ね合わせてたよね。あれがあどけなく可愛らしいお目目がクリクリした女の子とフランケンシュタインじゃなくて推定70代の大して可愛くもないじいさん同士なの良かったね。心温まるシーンのように見えてそこに宿る暴力性からも目を背けてないのが良かった。それがビクトル・エリセだからね。たまにこうやって牙を剥いてくれるとこれがビクトル・エリセ作品だと思い出せるからね。でもその後は解釈しないけどね。

追記
あ、すっかり当然のこととして書き忘れてたけど、これ予習復習必須の映画なので『ミツバチのささやき』と『エル・スール』を観てないとなんのこっちゃ分からなくなると思います。『マルメロの陽光』は今日本で観るの困難だから仕方ないけど、というか私も観てなくて悔しいんだけど、とにかくMCU未履修なのに『アベンジャーズ/エンドゲーム』だけ観ても……と結構一緒、だと思う(MCUほぼ未履修組なので観てません)。
ーcoyolyー

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