ーcoyolyー

ミツバチのささやきのーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

ミツバチのささやき(1973年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

これ、『ミツバチのささやき』って自分たちのことなんですね。この劇中に出てくる人間たちの取るに足らないような言葉のこと。取るに足らないというかこの人たち当時のスペイン政権から棄民されてる人たちで、そんな哀れでちっぽけな人間が自分たちを常に蜜を搾取されてしまうミツバチ(働き蜂)になぞらえてる皮肉というか自虐というか。

初めて観た時は学生でオリエンタリズムの内部の住人がオクシデントのどことなく追い詰められた田舎町を眺めているというぼんやりとした意識でこの世界と自分の世界は完全に断絶していたもののように思えたんだけども2024年春、今観ると私はそこに能登の風景を完全に重ね合わせて地続きの世界と感じていることが分かって、知ってたけども日本どんだけ追い詰まってんのよ、と凄まじくどんよりしてます。知ってたけど。最近私毎日『ハンドメイズ・テイル』の世界に生きてるなーと思ってるから知ってたけど。それにしてもあんなに他人事として大変そうな土地と思っていた場所がすっかりと自分事に……

国から見捨てられ荒涼とした絶望に浸かり切っている大地。そこにある唯一の希望が子供、すなわちアナです。大人たちが、大地が、植物が、骨と髄まで絶望し切っている大地でまだそれに染まっていない無垢なる者。希望の光。

そんなアナが揺らいで(大人はそれを傲慢にも『成長』と呼ぶ)希望の光が弱まったところに突然外部からの闖入者が転がり込んできます。彼はこの土地に染まり切った大人たちと違ってまだかすかに希望の臭いを消し去ることができない人物です。すなわち能登における山本太郎です。

そんな山本太郎と被災地の子供が一緒に炊き出しのカレーを食べます。希望を分け合います。アナの無垢な光は再生します。まあこれ聖体拝領のイメージもあるんだろうね。意識してそう撮ってるのか無意識なのかよく分からないけどカトリック圏ならそういうものは滲み出てしまうよね。というかむしろ意図せずそう撮れてしまった、の方がエモいからそういうことにしておきたいですね私は。

その後すぐ山本太郎あっさりと死んじゃいます。あっけなく殺されます。でも山本太郎は死にません。板垣死すとも自由は死せず、山本太郎死すとも希望は死せず。
安倍晋三が死んでも絶望が死ななかったように、希望もまた死にません。

ラストでアナは大人になります。ミツバチになります。働き蜂になります。そしてアナが蜂の巣に入るとその蜂の巣にも希望が宿ります。あの荒涼とした殺伐とした絶望に侵され尽くした大地に希望が宿ります。ここゾワっとブワッと鳥肌が立ちました。この映画、言外のメッセージ量が膨大すぎる。絶望と希望のコントラストが鮮やかすぎるし、何も言わずに分かりやすく説明もせずに映像だけで心を鷲掴みにして伝えてくる。キュアロンの『ROMA』も何も語らず映像だけに雄弁に語らせる手法だったけども、あれきっとこのエリセの姿勢から学んだんだろうな。スペイン語圏、基本的に政治がめちゃくちゃになりがちだから、切実に学ばれる手法というか。

マジックリアリズムの手法を使わないと政権批判ができない、という社会を私はずっと他人事のように思ってきたのに現代日本が全く同じ状況に追いやられていて、ちょっとそのことに唖然としてしまいます。

この国の大手メディアにはもうジャーナリズムはありません。荒涼とした殺伐とした絶望に覆われた大地です。NHKのニュースまでもこうなるのかと暗澹とします。でもジャーナリズムの精神は密かに守られています。NHKなんかだとフィクションという形で報道班がやりたくてもできなくなっていることをドラマ班が表現してます。ドラマでオブラートに包んで包んで包みまくってやっとのことで、伝わる人には伝わるような伝わらない人には全く伝わらないような、伝えたくない人には気付かれないような非常に繊細な匙加減の仕上がりでサインを送っています。それはかつてビクトル・エリセやガルシア=マルケスがやったようなことです。この国はそこまで追い詰められていますが、追い詰められていることに明確に気付いている人は僅かです。

13年前に見捨てられなかった人たち、7年前ですら見捨てられなかった人たち、なのに2024年の元日から見捨てられ続けてる人たち。この違いって一体何なのでしょう?コロナ禍が2020年で1941年で、と考えると2024年ってまさに1945年、すなわち昭和20年なんだよね。

自分だって今にでも見捨てられる可能性が高いのに見捨てられる側ではなく見捨てる側(国や政府や維新的なもの)の姿勢に寄り添って山本太郎を叩く勢力の多さに戸惑ったし今も戸惑い続けている。それが絶対的に正しいと分かっているがために自分がやってない罪悪感や後ろめたさをを誤魔化し自己正当化するためのバッシングというグロテスクなものをまざまざと見せつけられていて、あれこれラテンアメリカ文学で見たやつじゃん?ってなって自分の生きる国の現実にクラクラしてくる。

私、山本太郎的人物が現れたと思ったらどんどん勢いをつけて追い風に乗ってウクライナの大統領選を勝ち抜いたストーリーを一応選挙好きとしてヲチってはいたので、もうこうなったら山本太郎もゼレンスキーばりに追い風受けて政権のど真ん中に座っちゃえば良いと思う。もう本気でそう思うわ。アナと太郎で築いた希望の光でこの列島照らして欲しい。

この映画の原題、『蜂の巣箱の精霊』みたいな意味だとさっき知って、それだと思いっきり意図が明確になってるなというか、ぼんやりぽわんとした邦題にも関わらずその意図汲み取れていた私凄くない?なんで『ささやき』とか言い出した?と思ったんだけどこれきっと精霊じゃなくて聖霊の意味も入ってるからだろうなと気付くと、公開当時の配給結構頑張ったな、と思い直しました。espiritu(英語でspirit)を精霊と訳しちゃってるけどカトリック文化圏だとこれ当然聖霊のイメージも重なってくるわけで、だけど日本人にそれ理解できる人間どれほどいますか?と自問自答した結果の着地点だとするとかなり踏ん張って踏みとどまってるのも分かる。
働き蜂は搾取されるけどspiritは搾取されず、というアナの輝きに託されたものの重みにも泣ける。アナはほろ苦さを知っても光を宿したまま成長し続ける。
「ソイ アナ(私はアナです)」の光輝く強靭さたるや。

そしてそういう象徴としての描かれ方もカトリック的だな、と思う。

(それを託されてしまったアナ・トレントという生身の人間の人生の旅路はまた別の話)(この重みと向き合う映画がエリセの新作だと思っているので『瞳をとじて』を観に行く前の復習でした)
ーcoyolyー

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