ーcoyolyー

SOMEWHEREのーcoyolyーのネタバレレビュー・内容・結末

SOMEWHERE(2010年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

思っていた以上に普通に父と娘の物語、フランシス・フォード・コッポラとソフィア・コッポラの、コッポラ家の父と娘2人のパーソナルな物語でした。ソフィア・コッポラ作品に出てくる男性って真面目で辛気臭い父の影薄いなと思ってたけどこれは全くもってフランシス・フォード・コッポラの物語でしたね。この2人は普通に仲良いのね、というのはさておき、ここまで生々しくホームビデオ見せつけてくるか、くらいの。これ父もプロデューサーに名前連ねていてようやるわ、というか私は何を見せられているんだ、という気持ちにも少しなったんですけど、こうしなきゃならない、それがコッポラ家、という掟も同時に感じさせられたのでそういう心構えで挑むものなのだと思います。仲良きことは美しき哉。

まず初っ端から『地獄の黙示録』だよね。マーティン・シーンの冒頭のあれと共に父フランシス・フォード・コッポラが『地獄の黙示録』撮影難航して日本でやさぐれていたという逸話がそのままそこに移植されているような。そして天使。エル・ファニングがファーストショットから天使。ひたすら天使。これはもうフランシス・フォード・コッポラがソフィア・コッポラをそう見ていたのだからそう撮るより仕方ないという在り方の天使。ソフィア本人の意思が介在しない天使。だって父から見た娘を撮る視点にカメラを定めてしまったのだから。フランシス・フォード・コッポラにとってはずっとひたすら天使だったのだけど部外者と共有できてはいない視点だったために『ゴッドファーザーPart3』での酷評を招いてしまったという点では罪深い眼差し。それを諦めて受け入れるしかないソフィア。

ソフィア映画の魅力ってこの諦念だと思うんですよ。この人もう全てを諦めて受け入れる。そこに侘び寂びが生まれている。アメリカ的な侘び寂びが。

小津映画に代表される日本の侘び寂びに惹きつけられたとしても彼女の作るものに漂うそれは寿司ではなくカリフォルニアロール的な味わいで、日本人からすると寿司のようで寿司ではない何かだけどこれはこれで美味しいよね、的な受容のされ方をする孤独。そのものになれない哀しさ。それは彼女の本意ではないのだろうけどそこが逆にオリジナリティがあって良いなと思います。本意ではないけど受け入れるしかない味。

アメリカ人の中で孤独を感じていてもアメリカ人でしかない孤独。

この映画思っていた以上に『ロスト・イン・トランスレーション』と対になっていて、彼女にとってはトーキョーで感じる孤独もイタリアで感じる孤独も一緒のものなんですよね。イタリア系アメリカ人一族という文脈というか血脈としてはそこ他人が側から見ると一緒にできないんだけど本人としては区別されてない、同じものが漂っている。履歴書的なもの見て読んで他人がとやかく言ったって本人の感覚としてはどうしようもなくそうなんだからもうそれはしょうがない。

終盤で主人公がパスタ茹でてたけどそれがもうデロンデロンに伸びてるイタリア人が見たら激怒しそうな代物で、それがソフィアなんだ、イタリア系とはいえ所詮アメリカ人でしかない自分、そこに漂う哀しみを鼻で笑って受け入れることしかできない、そういう表現しかできないところ非常に好きですね。侘び寂びが、もののあはれがあるんだけど、それは私どもの文化圏とも微妙に共有できないそれで、彼女は1人で抱えるその孤独をこうやって映画で表現するしかできないんだよね。

この映画、天使扱いされていた人間が私は本当は人間なんだけどもう全てを諦めて受け入れるしかない、というトーンの(カメラワークの)ナラティヴでほぼ全体貫かれていたんですが、1箇所だけそれが破綻するところがあって、それはエル・ファニング演じるクレオが泣いたことで、天使ではない、天使としての仮面が剥がれて人間としての顔が顕現してしまうシーンなんですけど、あれ『パリ、テキサス』のナスターシャ・キンスキーの「トラヴィス!」に匹敵する名シーンだと思いました。ああそうか、あの映画でのナスターシャ・キンスキーもずっと天使扱いであそこで感情が露わになったことで初めて実は生身の人間であることも露出してしまっていたのか、とも今気付きました。

エル・ファニングをずっと人間ではなく天使扱いしていたことにソフィアはどこか気後れして引け目を感じていたところがあるのだろうか。ごめんね本当は人間なのにこんな神格化した撮り方してごめんね、というような。

でもエル・ファニングはタフなんだよね。その後のフィルモグラフィーを見るとその役割を平然と受け入れている。ソフィアの自己言及的な扱いからの逡巡のようなものはなくもう本当男性たちの欲望のままに神格化された役割を。自分の撮り方がその諸悪の根源となっていることに内心忸怩たる思いを抱えているんではなかろうか。そういうものが伝わってないし読み取れてない男性の作り手たちに対して思うことも相当ありそう。

『ビガイルド』で感じたソフィア・コッポラとエル・ファニングの距離感、ソフィアがエルに遠慮しているような。あれって自己を投影した役割を演じた子役が少し成長したら自分とは違うハリウッドの優等生としてそのサークルのど真ん中に君臨してるのをこの作品を撮った後で目の当たりにしたらそうなるかもしれないな、とは何となく伝わった。ハリウッドど真ん中の一族に生まれながらもそこに上手く馴染めないソフィア・コッポラとその中心にすんなりと座ることができているエル・ファニング。人間としての性質が違う。このように育ったエル・ファニングに人見知りしてニコール・キッドマンとエル・ファニングのサークルに上手く参加できなくてやっぱりどこかこのサークルのど真ん中には馴染めなかったキキと隅っこの方に逃げるソフィアの気持ちの方が私はわかるので少しいたたまれなくなりますね。自分がそのきっかけ与えてしまっただけに何も言えねえっていう。

なんかさ、私今ハリウッドの俳優のストライキに1人で勝手に連帯の意を示すためにサブスク利用するの控えてるんだけどさ、そのタイミングで観れて良かったわこの映画。暫くはケーブルテレビで録画していた映画だけを観てやり過ごすことにしようと思ってこれ再生できたの良かったわなんか。この映画、華やかに表舞台で輝いているところほとんど出てこなくてそういうスターの裏側の顔だけを描いてるし、多分子供の頃親に連れられて行った現場でソフィアの目を引いたのは裏方さんたちの仕事なんだよね。この映画でも『ロスト・イン・トランスレーション』でもスタイリストさんとかメイクさんとかそういう裏方の人たちの働いている姿が印象的に出てくるのでそれが幼少期からの彼女の視点なんだと思う。この時期にそういう視点を持つ人の映画観れたの良かったな、なんか。

ラストシーンがさ、結局映画という枷の外に出られない自分を暗示してるのもさ、何処へでも行けるようで実は何処にも行けないというのが、その枠を広げるための戦いが繰り広げられているこの時期に観れて良かった。映画の国の天使でお姫様でその中でしか生きることが許されてない人が、諦めてそれを受け入れるしかない人がいて、でもその外側で戦う人たちがいて、彼女がその外側で戦う人たちと地続きで連帯することが可能であるということが微かな希望のように思えて。諦めからくる笑顔以外の表情も彼女ができる日が来るかもしれないと思えて。
ーcoyolyー

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