せーじ

ひろしまのせーじのレビュー・感想・評価

ひろしま(1953年製作の映画)
4.5
206本目。8月16日深夜にNHKEテレで放送された番組を録画。
正直観る前から気が重く、再生ボタンを押すのが辛かったのだけれども、意を決して鑑賞。

この作品の惨さや壮絶さは、他のフォロワーさん達も語られているので、自分は少し違う角度から感想を書いていきたい。

まず、本作が作られたのは1953年(昭和28年)。前年にサンフランシスコ講和条約が発効し、GHQの進駐が終わった直後のことである。7月にはようやく朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ、米ソが相次いで水爆の保持を表明し、冷戦がじりじりと続いていた、そんな時代だ。(ちなみに翌年の1954年に「ゴジラ」や「二十四の瞳」が公開されている)
もともとは『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』という作文集から、近代映画協会という映画会社と日教組が企画を立ち上げ、近代映画協会に所属していた新藤兼人監督がそれを手掛けようとしたのだが、新藤監督の脚本に日教組が「原爆の真の姿が広く知らされない」として難色を示し、両者は決裂。新藤監督はそのまま「原爆の子」という作品を制作した一方、日教組は独自に監督を立てて会員に寄付を募り、広島市民と労働組合、地元企業などにも協力を取り付け、85000人もの一般市民(もちろんその中には実際に被爆された方々も含みます)をエキストラとして動員してこの作品を作り上げた。
しかし、配給を交渉していた映画会社は「反米色が強い」として冒頭の「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」というセリフなどのカットを要求。両者が譲らなかったので、他の映画会社も配給を拒否。大学や一部地域の教育委員会もそれに従い、映画が封切られても、広島や長崎以外では、ほとんど上映はされなかったのだという(以上Wikipediaなどからの受け売り)。
どうしてこういうことになったのかというと、前年まで進駐していたGHQのプレスコード(新聞や映画などへの検閲)に対する忖度があったとされるとWikipediaには書かれているが、それに加えてレッドパージ(いわゆる赤狩り)の影響に依るところが少なからずあったのではないだろうかと自分は考える。現代の常識や感覚からすると考えられないことなのだけれども、当時はこういった(アメリカによる)戦争被害を、メディアを使って率直に伝えることすら非常に難しかったのだ。また、講和条約でレッドパージは解除されたものの、日教組をはじめとする組合員に対する偏見や不当な扱いは、現在の比ではなかったのだろう。

そのような社会情勢を踏まえてこの作品を捉えなおすと、こういう内容の作品になってしまうというのは自明の理だったのではないだろうかと思わずにはいられない。
このまま原爆の被害が忘れ去られ、軽く見積もられ、再度この国が戦争に巻き込まれてまた新たな原爆の被害者が増えてしまうかもしれないという、焦りにも近い切実な想いが作り手の側にはあったのだろうし、出演者や撮影に参加した広島の人々も、それに共鳴をしたのだと思う。そう考えると、原爆を投下された日前後のなんでもない日常の姿や、戦後の広島で生きる人々の姿を徹底的にフォーカスしようとした、この作品の作りそのものが心から腑に落ちる気がする。

彼らの想いを、イデオロギーに囚われない視点でしっかりと受け止め、考えていかなければならないなぁと思いました。
「原爆の子」「ゴジラ」も鑑賞したいと思います。
せーじ

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