せーじ

秒速5センチメートルのせーじのレビュー・感想・評価

秒速5センチメートル(2007年製作の映画)
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341本目。

■はじめに
高校を入学してまもなく、ぼくはある女の子を好きになった。
名前はKちゃん。
隣の席同士になり、同じブラスバンド部に入って(彼女はフルートを吹いていた)、二人とも文化祭の実行委員になった。
彼女は、自分にとって衝撃的な存在だった。
中学校は、住んでいる地元に近い地域に居る人間たちが集まる場であり、三年間も一緒にいると、ある程度のノリや関係性みたいなものはわかりきっているものになりがちになるが、それがリセットされるのが高校という場なのだとおもう。彼女はそれまで見たことがないくらい純粋で正義感が強く、ものすごく勉強が出来る聡明な人だった。それでいてクラスメートにも人気があり、人気があるのに飾らない人だったと記憶している。一度、担任の発案で自己紹介と将来の夢を日直日誌に書いて回す…というようなことをやったことがあったのだが、彼女は「検事になって、田園調布に大きい家を建てて親を安心させたい」というようなことを書いていて、すごいな!と思ったことがある。そういった、それまでの自分自身には無かった概念を彼女が鮮やかに塗り替えてくれたのだと思い込んでしまったあたりから、彼女のことを意識をし始めていたような気がする。五月の林間学校の時に、クラスメートに茶化されながら、そして自分でもこのまま心臓マヒで死ぬんじゃないのかと思いながら彼女と踊ったフォークダンスは、今でも思い出すと胸がえぐられるようなあまじょっぺぇ気持ちになる。

しかし、そんな日々は残念ながら長くは続かなかった。
二学期。文化祭の前に彼女は隣の県の遠い街に引っ越してしまったのだ。

兆候はあった。
一度、学校の連絡網で彼女の家に電話をしたことがあったのだが、何故か男の人に冷たく「居ない」と言われてしまったことがあった。
翌日、そのことを彼女に話すと、少し慌てた表情でぼくに違う電話番号を教えてくれた。でも、当時のぼくにそれがどういうことなのかを聞くことなんて出来るわけがなかった。

実は、その後何とか彼女の新しい住所を友達経由で聞き、高校を卒業した後もなんどか手紙をやりとりしたことがある。手紙の中で彼女は看護師の道に進むと書いていた。
また、彼女の転校した学校がある街のお祭りに、家族に悪意無く連れて行かれたこともある。そのお祭りはユネスコ無形文化遺産にも登録されているような伝統あるお祭りで、各町内の山車が街を練り歩き、T字の交差点で山車がグルグルと回るという勇壮な内容なのだけど、当時の自分はそんなことは全く興味は持てず、道や駅で制服の女の子を見かけるたびに、彼女と鉢合わせをしたらどうしようと「こんなとこに居るはずもないのに」ドギマギしていたのを覚えている。

そう、どうしても彼女には言えなかったし、どうしても聞けなかった。
そしていつのまにか、聞けないという気持ちに押しつぶされてしまったぼくは、彼女とも互いにやり取りをすることがなくなってしまい、しかしこの気持ちを消化できずに抱え続けたまま、十代後半と二十代前半を過ごすことになってしまったのだった。。。

※※

■トラウマ・ムービー
・・・というような経験をしてきたので、本作の存在と概要は理解していたものの、アンタッチャブルなものであると決めつけて、ここまで見ないふりをしてきてしまいました。あまりに自分の事情と似すぎていると思い込んでしまったところも多々あります。今回、新海監督の作品を何本か観るにあたって「いい歳なんだし、そういうのもいい加減やめにしないとダメだよな…」と思い、このタイミングできちんとレビューを書くために向き合おうと決めたのです。
その結果…





うん、俺のとは違うなぁ!となった気がします。
少なくとも、そんなに怖がる必要はなかったですね。

■違うと思った理由
基本的にやっていることは『ほしのこえ』と変わらないですし、『木綿のハンカチーフ』の変形だといっても差し支えない内容だと思います。
ただ、『ほしのこえ』で自分が足りないと指摘していた「二人の時間」が大幅に充実していました。三話構成にすることで、別の視点からの「違う形での尊い二人の時間」を描いていたりもしていて、充実度が半端なかったです。そのうえ第一話では「果たして二人は逢えるのかどうかサスペンス」なんかも付け加えたりもしていて、隙がない構成になっています。
ただし、一話では徹底的に二人を最後の最後まで逢わせないようにさせるという、大雪の演出と描写はちょっとリアリティが無いなと思ってしまい、同時にその無理やりなサスペンス要素によって湧き上がる感情に共感性羞恥を感じちゃったりなんかして、観ていてずっとヘンな笑いが止まらなかったです。自然現象なんだから仕方がないでしょ?というエクスキューズを作り手の都合で大っぴらに張り巡らそうとしているのが見え見えというか。
二話も二話で、違う視点から主人公の彼の「呪い」が「別の彼女」に、彼によって酷い形でもたらされてしまったという罪深さを、じりじりとあぶりだす構成になっていたので、主人公(と観ている自分自身)にヘイトが溜まることうけあいな内容となっています。ただ、自分自身の経験としては、あのようなことを抱え続けていても外から勝手に好意を持たれるなんてことは全く断じて一ミリも起きなかったので、そこから「これはちょっと違うぞ…?」思い始めることが出来たのかもしれません。そもそも、二話のヒロインある花苗ちゃんは、呪いを喰らっても立ち直ることが出来るくらいタフな子だと思うんですけどね。

そして、いちばん「俺のとは違う」と思ったのは三話の結末の部分でした。
主人公が「呪い」にひきずられたまま、彼女とは違う女性と付き合って別れてをしてしまっていた…というのはありがちなことですし、まだ理解はできるんですけど、ラストシーンの展開を観て主人公に「それだけでそれを降ろせるの?」と思ってしまったんですよね。自分の実体験としてはあんな形で降ろしたり放り出すことなんて出来るわけもなく、「思いという呪い」を抱えて抱えて抱えて抱えて抱えて抱えて抱え続けて「やっとその重さに慣れてきたかな。客観的に捉えることが出来たんじゃないかな」と思えた感じだったのに、そういう所が全く描かれていなかったのです。「確認してから荷物下ろして解放されちゃうの早っ!?」と観ていて思ってしまいました。
なので、『ほしのこえ』で感じた問題はものすごく充実した形で表現されていたので、そこは解決しているなと感じられたものの、新たな「そこを描かないのはダメでしょ!?」という要素が別の問題として加わってしまっていて、「なんだよ、オマエの(アンタの)"それ"は、そんなもんだったのかよ!?」と思ってしまったというのが実情でした。まぁでも、どんな形であれ、こうやって観ることができたことで、自分の中で「これは俺のとは違う」という折り合いを明確につけることが出来た気もするので、そういう意味ではこの作品を観ることが出来てよかったなとは思います。

※※

すいません、とてもキモいレビューになってしまいましたが、個人的には向き合うことが出来てよかったなと思います。
映像表現自体は現代のレベルと比較しても突出しているので、そこだけに注目して観るというのもアリかもしれません。
それが出来るのであれば、という話ですが。
まだ観ていない方はぜひぜひ。
次回もお楽しみに。
せーじ

せーじ