せーじ

さくらももこワールド ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌のせーじのレビュー・感想・評価

4.7
334本目。

状況はどうだい ぼくはぼくに尋ねる
旅の始まりを 今も思い出せるかい

■私の好きな歌
というと、自分には絞り切れないくらい色々とあるのですが、一曲だけ選ぶとするならば BUMP OF CHIKENの『ロストマン』という曲を挙げたいです。
初めて耳にした時の鮮烈な衝撃と感動、この曲が出来上がるまでの感動的なドラマ、そして「選ばなかった自分自身との決別と再会を願いながら前に進むことを誓う」歌詞…。そのすべてが好きすぎて、墓場まで持っていきたいと思っているくらい大好きな曲なんです。

何故、こんな話をしているのかというと、この映画を観てから色々考えるうちに、実はそんなことを思い浮かべてしまったのです。今回はそのことについて、つらつらと書いていきたいと思います。
(書いていく内容上、ネタバレになってしまう部分もあると思います。ご注意ください)

■さくらももこ meets…
『ちびまる子ちゃん』という作品の作品世界は、作者であるさくらももこさんご自身の幼少期の想い出や、『ちびまる子ちゃん』を描くまでにさくらさんが触れたさまざまなカルチャーなどが元になって構築されているというのは、もはや語る必要がないくらい有名な話でしょう。ただし『ちびまる子ちゃん』は、作者の実際の日常や実在の人物をそのまま投影した作品ではなく、そこにはかなりの分量の創作要素が加わっており、「リアルな昭和40年代の静岡県清水市」ではない独特な世界観が拡がっているのだと言えるのではないだろうかと思います。その「創作部分」が本作では大幅に増幅されたうえで全面展開されていると言っていいのではないだろうかと自分は観たあとに強く感じました。例を挙げると、本作ではのちに『マインド・ゲーム』などで一躍有名になる湯浅政明氏が複数の音楽パートのアニメーションを手掛けていますが、そのどれもがサイケデリックでアバンギャルドなアニメーションで描かれており、彼の手掛けた場面は「一体自分は今何を観させられているんだ」と思ってしまうくらいトンがった映像が目白押しになっています。また、永沢や藤木、はまじやブー太郎、もっと言えば友蔵や父ヒロシなどの「ボンクラな男たち」への愛が強く感じられる描き方も、原作やテレビアニメ以上にスパークしているように思えました。しかしその一方で、「手を繋いで暮れなずむ街を歩く」場面や「およそちびまる子ちゃんではかかることが無いのではないかと思ってしまう様な劇伴」が流れる後半の泣かせるシーンなど、オーソドックスな郷愁や感動を感じさせる部分もキチンと用意されているのですよね。それらが一本の映画の中で同居しているうえに全く不自然ではない…と言うこと自体がそもそも奇跡的なことなのではないだろうかと思いました。しかもテレビアニメのエピソードのように、最後にトホホなオチを添えるというのも忘れないという、配慮が行き届いている作りになっていたりもしていて。オーソドックスな「毎度おなじみ」な作品でありながらも作り手の意図が明確に構成されており、それがキチンと映画作品として成り立っている作品なのではないだろうかと思います。
個人的にグッときたのは「お姉さん」のことを「おねえちゃん」が嫉妬する場面でしょうか。アニメシリーズをご覧になっている方はご存じだと思いますが、まる子のおねえちゃんはまる子に対して当たりが強いことが多く、どちらかというとまる子にとってネガティブな存在であるように見えることが多いのですよね。それだけに、あのわずか数秒の場面であんな表情を見せたおねえちゃんの姿を見て、自分は胸を掴まれるような切ない気持ちになってしまいました。このシーンがあるのとないのとでは作品の出来として大違いだったのではないだろうかと思います。

では、それらを踏まえてそうだとするならば、この映画が伝えようとしていることとは、どのようなことなのでしょう。それを考える手がかりとして、本作の漫画版のあとがきでさくらさんが書かれていた内容をここで引用したいと思います。

「もし私があのお姉さんのように、静岡で恋人ができていたら、やはりあのお姉さんのように恋人のもとへお嫁に行ったかもしれません。(中略)たまたま今の私は東京に出て東京で暮らしておりますが、それも人生の中のひとつの選択パターンにすぎず、ちょっとした選択の違いで他の形の人生も充分あり得るという、シミュレーションをこの物語の中でお姉さんにあてはめてみた感じがします。」

ということはつまり、しょうこお姉さんは「もうひとりのさくらももこさん」だったのだということなのですよね。まる子を「さくらももこさんの分身」であると定義するならば、この作品の物語は、さくらさんが「(今の道を選ばなかった)さくらさんと出会う話」であると言えるのだと思うのです。
そう捉えていくと、物語の展開の全てに納得が出来てしまいます。しょうこお姉さんのアトリエに飾られていた絵は、さくらさんが好んで描いていた絵の絵柄によく似ていますし、あの場面でまる子がお姉さんの後押しをしたのも、あの場でまる子が万歳をしたのも、すべて納得が出来てしまいます。

強く手を振って 君の背中に
サヨナラを叫んだよ
そして現在地 夢の設計図
開くときはどんな顔

しょうこお姉さんは、さくらさんにとっての『ロストマン』の様な存在だったのかもしれない…
鑑賞した後に自分はそんなことを考えついてしまい、何も言えなくなってしまいました。

■赦しと再会を願うということ
本作はまるで、しょうこお姉さんのことを『めんこい仔馬』のようになぞらえて「さくらももこワールド」から送り出しているように見えるので「"結婚"を"出征"のように描いている」と読み取れなくもない作りであるとも言えるのですが、そこまで考えてみて、最終的にそういうことを描いている訳ではないように自分には思えました。というよりも、「そうはならなかった」まる子と「そうなってしまった」しょうこお姉さんとを対等な視点で描いている様に思えたのですよね。これは、作中内に登場する名も無い人々が丁寧に描かれている様に、物語世界全体をフラットに描こうとしたからなのではないかなと思ったのです。さくらももこさんは『ちびまる子ちゃん』を発表してから、徐々に曼荼羅をモチーフにしたイラストを『ちびまる子ちゃん』を含めた様々な作品などに取り入れるようになっていきましたが、もしかしたらこの映画そのものをも曼荼羅のように描こうとしたのではないでしょうか。それはちょうどまるで、世界を網羅するかのように。まる子やしょうこお姉さんを含めた「さくらももこワールド」をフラットな視点でさくらさんは眺めようとしたということなのかもしれません。
そして、おそらくはしょうこお姉さんとまる子との"再会"を願って、さくらさんはあの結末を描いたのだと思います。「選ばなかった道を選んだ自分自身を認め、赦す視点」と、そんな自分自身とまた出会うことを願って。

君を忘れたこの世界を
愛せた時は会いに行くよ
間違った 旅路の果てに
正しさを祈りながら 再会を祈りながら

※※

ということで、個人的な想いが爆発してしまったせいで、すごく分かりづらい観念的な感想になってしまいましたが、そのおかげでとても大切な作品になりました。
アニメーションとしての面白さがスパークしながらも、とても面白くて暖かくなれる傑作だと思います。
まだご覧になっていない方はぜひぜひ。
せーじ

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