kuu

マリー・アントワネットのkuuのレビュー・感想・評価

マリー・アントワネット(2006年製作の映画)
3.7
『マリー・アントワネット』
原題Marie Antoinette.
製作年2006年。上映時間123分。

14歳でオーストリアからフランス・ブルボン王家に嫁ぎ、18歳でフランス王妃に即位、そしてフランス革命によって37歳の短い生涯に幕を閉じたマリー・アントワネットの人生をソフィア・コッポラ監督が映画化。
タイトルロールにはキルステン・ダンスト。
その他アーシア・アルジェント、ジェイソン・シュワルツマンらが共演。

14歳のオーストリア皇女(キルステン・ダンスト)は、母マリア・テレジア(マリアンヌ・フェイスフル)の命令でフランス王太子(ジェイソン・シュワルツマン)に嫁ぐことになる。期待を胸に馬車に乗り込んだ彼女だったが、国境では衣装から下着までをフランス製のものに変えさせられ、愛犬まで取り上げられてしまう。。。

史実としてのマリー・アントワネットに対する反発やゴシップてのは、王妃となって間もない頃から既に宮廷内で増えていったそうで、ルイ16世には身体的な問題があったためにふたりの結婚が確かなものになるまで七年かかり、その間夫婦に関する噂話がヴェルサイユ中の貴族に広まり、マリー・アントワネットにメチャクチャな屈辱を与えた。
余談ながら、マリー・アントワネットとの夜の営みが上手いこといかなかったと、理由としては諸説あるけど、包茎説がルイ16世にあるが、それが原因なら日本人男性の約8割は包茎(仮性包茎、カントン包茎、真性包茎含む)なんやし、どうかなぁと思うし、小生は精神的な問題がデカかったんやろなぁと、推測します。
あ!包茎のはなしじゃなかった🙇‍♂️。
しかし、そないな雑音のなかで王妃としてもう少し慎重に行動すべきだったはずやのに、マリー・アントワネットは浪費で時間をやり過ごし、自分の役目に対するプレッシャーを忘れようとす。
結局、マリー・アントワネットと云やぁ、赤字夫人なんて云われたり、貧しい人々の苦しみに無関心な上流階級の代名詞のように思われてきた。

この数世紀を経た今でも、多くの人々は、悪名高いフランス王妃が、臣下が飢えているという知らせを受けたとき、『ケーキを食べさせてあげよう』ちゅう様な言葉を実際に口にしたと信じている(この言葉は、実際に当時流行した劇に由来している)。

今作品の脚本・監督のソフィア・コッポラの今作品は、著書『マリー・アントワネット』を原作としています。
脚本・監督のソフィア・コッポラは、アントニア・フレイザー著の『Marie Antoinette: The Journey』を基に、彼女の名を明らかにし、その認識を改めようと決意している情熱がうかがえる作品でした。
今作品では、マリー・アントワネットは、歴史が彼女に課そうとしている役割に備えることなく、保護された、やや軽薄な少女として描かれている。
映画は、14歳のオーストリア大公妃が、二国間の条約によってフランスの王子ルイ16世と結婚を約束したところから始まる。
彼女はすぐに新しい国、新しい役割へと連れ去られ、18世紀末のヴェルサイユ宮殿での宮廷生活で規定された儀式や規則の事実上の囚人となる。
コッポラ監督は、芸術的に(商業的にはともかく)賢明な判断で、今作品から誇張やメロドラマの可能性をほとんど排除し、代わりに当時の王室の生活におけるゴシップ的な些細なことや気の遠くなるような儀式に集中させることにしてる。
マリーは個人のプライバシーを完全に奪われ、朝の着替えを何人もの事実上の配役の手で行われ、女王にふさわしくない礼儀作法や儀式の違反を見張る道徳顧問の監視下に常に置かれるちゅう屈辱に耐える姿が描かれる。
コッポラは、はんなりした舞台の華麗さと豪華さに観てる側を浸らせながら、ドラマを微妙に展開させていく。マリーは、自分が強いられている制限された生活に明らかに腹を立ててとるが、泣き言を云ったり、自己憐憫に浸ったりすることはほとんどなく、むしろ文句を云わず、ほとんど宿命的とも云えるほどの潔さで自分の役割を受け入れている。
夫が何年も結婚を拒否していても、彼女は夫に同情的で、彼の "問題 "を理解している。
この映画は、重大な危機の瞬間に焦点を当てたり、女王の有名な残虐性や自己満足を過剰に演出したりしないので、動きが遅く、退屈やと感じるやもしれませんが、そのかわり、女王は外の世界と積極的に関わることもなければ、完全に見放されたわけでもない女性として描かれている。
しかし、今作品では女王に有利なように、苦しんでいる国民の生活をほとんど描いていないことに異論を唱えるのも散見してた。
しかし、その彼女の偏狭さこそが、一見善良な心を持った女性が、同時代の人々や後続の世代からいかにひどく誤解されていたかを教えてくれるんやと思う。
最後に、彼女とその家族が是正と復讐を渇望する暴徒によって破滅に追いやられるとき、彼女は本当に困惑しているように見えるが、そのストイシズムと優雅さの中に奇妙な英雄的なものも感じられました。
これは、キルスティン・ダンストの力強い演技によるものなんやろな。
彼女は決して誇張することなく、宝石で飾られた甘やかされたフランス王族の装いの下に閉じ込められた複雑な女性の姿を私たちに見せてくれました。マリーは、世界情勢や国家運営に関わる難解な策略には関心を示さないかもしれへんけど、宮廷生活における不条理で恣意的な権力闘争の中で自分の道を切り開く方法を知っているほど抜け目のない人物であった。
今作品で最も興味を惹いたのは、時代錯誤なロック音楽のサウンドトラックを採用しているとこ。
個人的には、このサウンドトラックはかなり効果的でやったなぁ(ただし、この映画に不可欠なものだとは決して思わへんが)。
歴史にこだわる純粋主義の方はこの選択に反対するかもしれないけど、脚本が彼女の人生全体に対してとった比較的控えめで、歴史的に正確なアプローチに補償を見出すことができるとは思う。
今作品は、何よりも抑圧の研究であり、人間が比喩的な金色の檻に閉じ込められ、まるで何かが本当に重要であるかのように日常生活を送ることを期待されるとどうなるかということやと思う。
こないな観点から見ると、この映画は実に悲しく、痛烈で、しばしば非常に滑稽な映画でしたが、個人的には好きな作品です。

全く関係ない話ですが、テロと云う言葉をよく目にしたりする。
最近やと飯テロって、食べるのをガマンしている人、もしくは食べられない人に対して、激しく食欲を沸き立たせる振る舞いをすることですとかも使う『テロ』の語源は今作品辺りの時期に生まれた。
1791年まで、マリー・アントワネットは、フランス革命に協力的な穏健派の指導者たちの支持を得ることができたが、ヴァレンヌへの逃避行(1791年6月)は、王家の脱出に失敗し、裏目に出た。
この事件はルイ16世とマリー・アントワネットの信用を失墜させ、彼らの政治的支持者を弱体化させることになった。
1792年、革命の穏健派が衰退し、反君主主義のジャコバン派が台頭してきた。
このジャコバン派のテロリストたちが行うテロール。
テロの元ネタのテロールの語源は、フランス大革命末期の前記のジャコバン派による『恐怖政治体制』(フランス語: le régime de la Terreur 1793年6月–1794年7月)より来ている。
権力者が対立する者を抹殺した場合もしくは、その影響(恐慌や追従)も含めてテロと呼ばれていた。
恐怖を意味することから、政治的な目的を達成するために暴力による脅迫を用いることを云うようになったとさ。
なんやそれ😊

雪深き地域にお住まいの方、雪どけ待ち遠しいですが、また、コロナ禍で外出も儘ならない皆さん。
健康第一でやっていきましょ。
kuu

kuu