馬井太郎

東京オリンピックの馬井太郎のレビュー・感想・評価

東京オリンピック(1965年製作の映画)
5.0
1964年10月10日、アジアで初の第18回東京オリンピックは、日本晴れのもとで、その幕が切って落とされた。雲ひとつない快晴になって、本当によかった、と、いまあらためて、その幸運をかみしめる。
翌年、この記録映画は全国で封切られ、わたしも、学校の授業として? 観光バスで移動、映画館で観戦した。映画そのものの評判は、当初、決して良いものではなかった。むしろ、酷評に近いものだった。
しかし、時間とともに、それは、「好評」へと、大逆転していったのである。
勝負に賭ける選手たちの、極限ともいえる心身の内を、望遠レンズは、あくまで冷静に、生々しく映し出した。単なる記録映画ではない。それは、脚色の無い偉大な人間ドラマである、といっても過言ではない。その証拠に、競技結果は、ほんの数種目を、最小限の電光掲示板と、画面下のテロップのみにおさえ、表彰式での国歌・国旗にとどめた。
何台のカメラが使われたか、わたしは詳しく知らないが、撮影にあたっては、大いに苦労されたことと思う。試合に臨む選手への気遣い、観客に対してははもちろん、競技進行をも邪魔せずに、それでいて、撮るべき瞬間・シーンは確実なものにしなければならない、など、いくつものプレッシャーが、撮影隊には課せられていた。室内では照明、野外では天候、特に雨降りは過酷なものだった。
当時は、いまのようなコンパクト・ビデオカメラなど無い、パナビジョン社、アーノルド・リヒター社などの大型カメラ、しかも、ロール・フィルム、手持ち撮影は不可能、三脚必須、高速で回さなければならないスローモーション、そのフィルムの量と交換作業、いくらその道の巧者であっても、二度と撮り直しのできないプレッシャーは、想像を絶するものである。

「オリンピックの華」は、やっぱり、何と言ってもマラソンである。5キロ毎の給水所で、立ち止まってゆっくりと、ジュースを2,3杯味わいながら飲む選手、バケツの水を柄杓(ひしゃく)で頭から浴びる選手、水を含ませた食器洗い用のスポンジなど、思わず笑いが出てしまう。前回、ローマの石畳を裸足で駆けて世界を驚かせたエチオピア・「ビキラ・アベベ」、随行車からのカメラが、横顔をとらえる。無我の境地にでも居るような、呼吸音の微塵も感じられない。
再び、トラックに戻った彼を、スタンドいっぱいの観衆は、大きな拍手で迎える。トップでテープを切り、さらに余裕綽々であった。
2位で競技場に戻ったのは円谷幸吉、すぐ後ろからイギリスのヒートリーが追ってくる。大声援もむなしく、最後のトラック周回で抜かれ、3位にとどまった。しかし、マラソンでの日本人入賞は、28年ぶり、この快挙に日本中が沸き返った。
メキシコ五輪の開催を前にした1968年1月9日、自衛隊宿舎自室で、「もう走れません」と、遺書を残して自ら命を絶ってしまった。彼の写真がネット検索で見ることが出来る。何と悲しげな顔であろうか。

2015年5月に取り壊されてしまった国立霞ヶ丘競技場観客席の下には、選手控室や事務所の他に、スポーツ博物館、プール、サウナ、ウエイト・トレーニング場などいくつかの設備があった。わたしは、途中ブランクはあったものの、足掛け40年、施設利用会員としてよく通ったものである。
トラック開放日と云うのがあって、ランニング練習など、その日ばかりは、会員であれば自由に走ることが許された。
当時のトラックは、まだ「アンツーカ」(煉瓦の粉を厚く敷きつめ、水はけの良い)で、ボブ・ヘイズ、アベベらが観客をわかせたコースを、心躍らせて走ったものである。
それから間もなく、アンツーカよりも水はけは劣るものの、殆ど手のかからない「タータン」に張り替えられた。アンツーカと比べて、クッション性があるように思えて走りやすかったけれど(走りの専門ではないが)、寂しい気持ちも湧いてくる。

強者(兵?)(つわもの)どもの夢の跡、旧競技場が壊され、新たなスポーツ戦場、物議をかもしている。無事に、安価に、再築されることを強く望むものである。

追記:(2015年7月31日)舞台・映画俳優:加藤武さん(文学座長)が亡くなられたとの報道が伝えられた。享年86歳。40年以上も前になるが、ウエイト・トレーニング場の会員で、時折ご一緒させていただいた。誰にでも、高ぶらず優しく接する心の大きな方でした。
ご冥福を心からお祈りします。