生きていることと死んでしまったことの境界はどこなのだろう。幼い頃からずっとわからないのだけれど、夏は死の匂いをとても感じる。
父親が亡くなったのも、夏がその年最後の力を振りしぼっていたころだった。もう恋しくなって泣くことはないが、瞼の裏で父の微笑んだ顔が今でも鮮明に浮かぶ。真夜中に目が覚めて洗面所の鏡を見て、カーテンがたしかにふわっと動いたとき、父が会いに来てくれたのかなと思う。全然怖くはなくて、姿形はどこにもなくても、触れられなくても、なんとなくいるなと思う。会いたい、という思いがこう感じさせているのだとしても。生と死の線引きをしているのは生きている人間のほうで、ほんとうはたしかなものなどないのだろう。
誰ともずっと一緒にはいられない。そのわかりきった結末を、さびしくなって血眼になって書き換えてもきっと同じ。生と死は、それぞれが抗えないいちばん大きなはじまりとおわりとして、わたしたちを存在させている。