モクゾー

ドゥ・ザ・ライト・シングのモクゾーのネタバレレビュー・内容・結末

ドゥ・ザ・ライト・シング(1989年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

●今日の言葉は、CHILL


コロナの騒ぎで、ソダーバーグのコンテイジョンが再度注目されている。
想像できることは現実にも起こりうる。では、その時自分はどうするのか?…映画の持つ価値を示した作品だと思う。

さて、今のアメリカではコロナもそこそこに、人種差別と暴動で町がよっぽど炎上している。
このドゥザライトシングも、その点に置いて、コンテイジョンのように今の世相を見事に写し出している映画である。


フラストレーションが溜まる猛暑の日…特別なことは何も起きないが、些細なことをきっかけに、諍いごとが起きる。
誰が悪いのか?何が悪いのか?という冷静さ(CHILL)を誰も持たずに、気持ちの昂りだけがエスカレーションしていき、最後には文字通り炎上する。
この猛暑は、今で言うコロナ禍なのだろう。確かに人々はストレスを溜め込んでいる。

しかし、問題は、今ここに起きた問題よりもずっと以前…建前では表れてこなかった、意識の根深いところにある、憎しみや差別である。

何にだって引き金にはなり得た。そして、この映画でも、現実でも、いみじくも全く同じ警察による殺人がその引き金となってしまった。
そして、そのリアクションも現実と恐ろしいほど同じで、店を燃やし、一目散にレジから金を抜き取ろうとする暴動に発展していく。そこにはすでに抗議の意味や正当性が失われている。
映画では、向かいの韓国人のやっているスーパーまでは、一息のところで手が及ばなかったが、現実ではのべつ幕なしの暴動に発展してしまっているところを見ると、黒人監督のスパイクリーが信じるほど、現実のアメリカ社会にモラルはなかったと悲しむべきなのか。


ドゥザライトシング、と言う言葉は、
自分が正しいと思うことをやれ!という意味である。
メイヤーが車に轢かれそうな子供を助けることも、ラヒームが迷惑を考えず大音量で音楽を流すことも、店に黒人の写真を飾れと騒ぐバギンも、全部彼らのライトシングである。
このように個人のモラルに依存する正しさには、「尺度」も「思いやり」も存在しない。その点において、今の暴動もこの映画も、日本人からするとどうも不可解であり、どうも不快な想いを感じるのではなかろうか?


CHILLなスパイクリー監督は、最後にキング牧師とマルコムXの言葉で映画を締めているが、彼らは「ドゥザライトシング」などとは言っていない。

ただ、暴力は対話を拒み独白しか産まず、螺旋階段のように人を低きに貶めてしまうのだ。

Its the truth ,Ruth.