アカバネ

ブルーノのアカバネのレビュー・感想・評価

ブルーノ(2009年製作の映画)
4.7
映画の枠組みすら超えそうな何か。

本作は監督ラリー・チャールズ×主演サシャ・バロン・コーエンという、2006年の『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』から続くコメディ映画のシリーズである。

はじめに、本シリーズには他のコメディ映画とは大きく異なる点が存在する。それは本作を観れば分かる通り所謂「どっきりカメラ」的手法を用いているが故の、一種のドキュメンタリー要素が作品内を大きく支配しているという点である。
例えば前作「ボラット」ならば、主演のコーエンは「カザフスタンのTVリポーター」になりきって、実際に色々な人々や団体に取材をする(それがどっきりカメラ要素のある撮影とは教えずに)。これによって取材を受ける側は何も知らずに話をするわけだが、そこで活きてくるのが「ボラット」というキャラクターの設定である。
先程も記述した通り彼はカザフスタンのTVリポーターであるが、その設定において「カザフスタン」という国は、道路も舗装されていないような発展途上国で、極度の男尊女卑社会で、更には「ユダヤ人追い祭り」なる催しが定期的に行われるという...普通の価値観をもつ人間ならば異常を感じるような国なのである。
そんな国のTVリポーターがアメリカに渡って取材をするので、当然のことだが価値観の齟齬から生じる失言やらなんやらが連発され、人によっては激怒もする。なんなら逮捕もしようとする。

しかし、本シリーズの真の狙いは別にある。それはコーエン演じるキャラクターの度が過ぎた発言に便乗して、素でヤバい発言をしてしまう受け手側のリアクションである。例えば「ボラット」ならば、ロデオ大会にて特別ゲストとして招かれ挨拶をする際に「私はブッシュのテロ戦争を支援します!」「イラクは女子供も皆殺しだ!」と過激な発言をするわけだが、なんと一部を除いて殆どの観客は歓声を上げるのだ。
こうして前作「ボラット」にてコーエンは、アメリカ保守層の潜在的意識を浮き彫りにしつつ、あらゆる人々に体当たりのギャグを仕掛けた。


そこからの『ブルーノ』である。
本作でコーエンが演じるのは、”ドイツ以外のドイツ語圏”では有名なファッション番組の司会者で、同性愛者でもあるのだが...

まず、この「同性愛者」という設定が良い意味でテキトーすぎる。いかにも同性愛者に対して偏見のある人がイメージするようなキャラクター造形で、端的に言えば「極度の変態」なのである。そのため本作のギャグは下ネタの占める割合がほとんどで、本当にくだらない。前作「ボラット」でもドン引きするような下ネタが連発されたが、本作はそれすらも凌駕する。

そんな調子で本作はアメリカの保守層だけに留まらず、宗教、ファッション、テレビ、セレブ、政治家、テロリスト、インチキ霊媒師、自分の赤ん坊を使って一儲けしたい母親などなど...「ボラット」以上に何から何まで笑いものにする。
しかも極度に失礼な態度で臨んでいるので、基本的には相手が怒ったり、殺しに来たり、あるいは呆れて帰るまでいじり倒す。
その誰にも媚びない姿勢はまさしく、「コメディアン」のあるべき姿そのものなのかもしれない。しかし画面の中で起こっている事態があまりにも下らな過ぎて、それすらもよくわからない。

そして何よりも、これは個人的に思う本作一番の特色なのだが、本作には物語がない。
本作にも「ファッション・ショーを滅茶苦茶にした結果オーストリアに居られなくなったブルーノが渡米し、ハリウッドで人気になろうとする」という設定上の物語は確かに存在する。劇中、ルッツと呼ばれる付き人とのアレコレも進行する。
しかしこれらはどちらかと言えば「後付けされた物語」という印象で、流れる映像自体には物語は無いにも等しい。「ひたすら色んな所に行っては、そこにいる人をいじり倒す」という...箇条書きの文章のような映画なのだ。
因みに前作「ボラット」も本作と同じようなドッキリを連発する構成だったが、そこにはロードムービー的側面があった。

私は決してこれを批判しているわけではない。
なんなら映画というのは本来、「関係の無い映像同士がカットによって繋がったとき、そこに初めて物語を見出す」というものではないだろうか。
とは言いつつもそれは考え過ぎだと思うし、やはり現代的な価値観からして、本作は映画という枠組みに抑えることすらも難しい存在なのだと思う。
アカバネ

アカバネ