ニトー

早春のニトーのレビュー・感想・評価

早春(1970年製作の映画)
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ぶっちゃけますとぱっと見ただけだと「童貞面倒くさっ!」という映画です。ただ、それが笑いから恐怖に転じるというあの飛躍がたまらなく自分は好きだし、なによりむき出しの激情がこちらを揺さぶってくる。あのラストは実に映画的だと思うし、見ている間は自分もあのラストになってくれと思っていたから。けれど、実はこれは自分の願望ではなく映画の構造から浮かび上がる必然的な予感だったのかもしれない。それは色による予兆だったり、血管を思わせる様々なオブジェだったり、あるいは電気や結晶だったりといった、諸々のピースがラストを暗示させているからなのだと、自分の感じたことを遠山純生の解説がうまく言語化してくれていました。


まず冒頭からなんか不穏というかヤバめなオープニングになっていて、気味悪くて最高。廣瀬純氏の評でもここに触れていましたが、赤い色がとても強烈に使われています。文字も赤いっていうのを廣瀬さんは指摘しておりましたが、全編にわたって、この映画の中には色が象徴「的」に使われていて、凄まじく印象に残ります。あくまで「的」というのが廣瀬さんの言いたいことっぽいのですが、普通に見てるとやはりそこに意味を見出したくなる。というのは、まあ自分が臆病なチキンだからということでもあるんだけれど。

オープニングで血のような赤色が自転車の色に繋がっていき、その自転車で仕事先に向かうマイク(ジョン・モルダー=ブラウン演)が言い訳じみた音楽をBGMに向かっているシーンに。
マイクは、公衆浴場なる日本にはない個室風呂と市民プールが合体したような施設で学校を辞めて働くわけですが、その初日に職員である艶美な年上のお姉さんであるスーザン(ジェーン・アッシャー演)に仕事の説明を受ける。人物のよりのカットが多いのも印象的でしたな。上の動画にもあるんですが、マイクにとっての初客であるマダム(ダイアナ・ドース演)との一連のやり取りは笑えます。明らかに童貞狩りを目論むふくよかなマダムが足でドアを閉めて密室を作り出そうとすると、すぐさまマイクがドアを開けたり。このシーンに表されるように、最後の最後を除いて全体的に笑える・・・というか童貞を笑う映画ではあります。ただまあ、居心地の悪さを覚える笑いではあるんですけれど。特に童貞・恋愛初心者なんかは胸をかきむしりたくなる笑いだと思います。ていうかこの映画におけるマイクを指差して単純に笑える人は、己の幼稚さというものに形式はどうあれ決別できた人なのだろう。わたしはそんな大層なことはできていないので、笑いながらも顔を引きつらせていましたが。
そんなわけで童貞マイクくんは年上のお姉さんのスーザンに恋をしてしまい(と言い切ってしまうにはちょっとアレなのですが、ここで自分の「恋」と「愛」のことを書くのも面倒なので割愛。というのも、元同級生の女の子からセックスのアプローチをされているにもかかわらずそれを断っているから)ます。ところが、そのスーザンは尻軽なのだと男友達にからかわれたり学生時代の教師(既婚者)に「俺もあやかりたいですなぁ」とスーザンについてからかわれるわけです。

思い切ってマイクはスーザンをデートに誘おうとすると「婚約者がいるの」と一蹴されてしまうマイクくん、矢も楯もたまらず尾行もといストーキング開始。気持ちはわからなくもないが、童貞特有の斜め方向へのエネルギーの消費に笑いながら引きつるわたす。や、成人映画の支配人のくだりとか、そのあとのスーザンの婚約者が警官に職質されるくだりとか普通に笑えるんですけどね。ただ、顔見知りで、イタズラのつもり(本人談)とは言え背後から胸を揉むってヤベーやつですよ明らかに。まあったく、童貞はちょっと優しくするとコレですよ!かといって無下に扱うとそれはそれで逆上して結局ストーキングしてきそうなのが童貞の恐ろしいところ。宮台真司はこういう童貞向けに恋愛講座を開け(唐突)。

そんなこんなでスーザンへの思いに悶々としていると、今度はくだんの教師と仕事場でファックしようとするスーザン。ここからのマイクの暴走のを寄りで撮っていて、廣瀬氏は「何がなんだかわからなくして、上澄みとしての感情の発露だけを取り出している」というようなことをおっしゃっていましたが、なるほどと得心。ここで非常ベルを鳴らすために流した血もすぐに背景の色に溶け込んでいくという廣瀬氏の評は面白かったですが、自分も似たような感覚ではありましたな。ただ、暴走する男性器のエゴの表象として消化器の暴発を描いているんじゃないかなーとか、ともかくそういう見方をしていた。なにせ、この作品には色が強烈に画面で主張しているんだもの。スーザンの黄色いコート(?)、受付の緑色、そこかしこにある赤色、雪とブーツと牛乳と運動着の白、それらが背景の色と同化していき世界によって無化されていく、というのが廣瀬氏の論の自分なりの解釈なんですが、氏は「色が何かを表しているというのも間違いではないと思います」とは言っていました。ただ、その先にある純化された「叫び」や「感情」の発露こそが重要なのだと。「叫び」の意味ではなく、「叫び」そのものこそが大事である、と。それをスコリモフスキの別の作品を引用したり、小津映画のカラー作品の随所にちりばめられた赤い色を引き合いに論じておられました。
普通は暴力映画を撮るときは、赤い色を血に見立てるのに、これはその逆なのだと。

しかしまあ、最後の水中でのアレは恐ろしくも悲しくもあって、どう表現したらいいのやら。

どうして処女を狙うのかということに対して、自分は「潔癖さ」や「独占欲」のようなものから生じているのではないかと思っていたのですが、「比較による恐怖」という視点があることこの映画で気づかされましたです。なるほど、オスとしての尊厳を喪失することではありますものねーと納得。
そう考えると、男性の性に関する潜在的な不安や恐れといったもの、その叫びの映画としても見ることができる。
ただ、私自身はほかの作品を見ていないのですが、評論家諸氏の言から察するに性別などに限らない人間の激情がそこにはあるのだと思います。


あと「CINEMA VALERIA」の町山広美氏と中原昌也氏の対談で中原氏の言っていることが廣瀬純氏がトークで述べていたことと結構同じような論になっていて面白かったです。なるほどなー、と。廣瀬純氏のトークの内容はほとんど「CINEMA VARERIA」で言及されていることと一致しているだけでなく遠山純生氏の詳しい解説でほとんど映画の構造がカバーできてしまうので、「CINEMA VARERIA」は買って損はない。パンフレットの代わり、ではなくパンフよりも濃密な情報ですぞ。

スコリモフスキはこの映画が初めてで、この映画を劇場で観れたことは本当に良かったと思います。傑作、でしょう、多分。少なくとも脳天かち割りでもしないとこの映画の記憶を消し去ることはできまい。
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