『念 ‐呼び起こされる想い‐ 』
劇中、特に後半は鳥肌が立ちまくった。ただ、それは単純に怖かったからという事ではなくて…
それまでの表現法や演出の集大成とも言える内容と、表層から考えうる映画の予想終着点を遥かに越えてくる脚本の妙。この作品以後、あからさまな幽霊ものを撮っていない事からも分かる通り、この映画、黒沢監督のひとつの到達点なのではないだろうか。
以前、一度鑑賞しているにも関わらず、その時この映画の本質を理解出来なかったのは、そこに単なる“Jホラー”を期待した自分のせいであろう。
最初に映し出されるある事件現場から、この映画のトリックは既に始まっている。どう考えても、そうとしか思えない話の流れと近しい者からの疑惑の“念”。ただ、ある者に対しての恫喝が工作ではなく、本心からのものだと分かった時に起こる観ている側の混乱。この仕組まれた混乱は黒沢監督の真骨頂だ。
この映画に現れる幽霊は、それまでの黒沢作品の幽霊表現を取り入れていながらも、なぜここまで?と思うほどしっかりとそこに存在し、映し出される。それは何より、その者の“念”が非常に強いものであるからと、しっくりと腑に落ちる。
一昨年の事になるが、ある仕事で人が“そこで”亡くなった部屋に入った。当然通常の仕事とはおよそかけ離れた特命的業務であり、うちの会社の会長の知り合いだからという理由からのものであった。身内ではないという事からくるのだろうか。そこで感じるのは、何とも言えない“念”のようなもの。どういう想いで亡くなったのだろう。いやがおうにそういう事を感じてしまう。そして、その日からの数日間は、どうしてもその部屋の事が頭から離れなかった。その人の事は何一つ知らず、写真なども見ていないのにだ。それでも呼び起こされる「俺は何かを見てしまうのではないか?」という、単純な恐怖とはまた少し違うその想い…
この映画で描かれる幽霊とはまさに、そういった“念”が生み出し、呼び起こしたものである。自分の場合は、少し関わっただけでそこまで思ったのだから、自責の念から毎晩幽霊を見てしまうという劇中出てくる若い警察官に至っては、その気持ちいかばかりか、と思わされてしまった。
前述した通り、予想終着点を越えてくる監督自ら書いた脚本は、娯楽作としての側面もしっかり持っている。呼び起こされた主人公の記憶により明らかになる真実も驚くべきもの。期待に応えてくれるホラー描写というのもあるにはある。
しかし、この映画の一番の深層は、他でもない、ホラーにとって欠かせない要素、“怨念”。これが他のどのホラーの怨念よりもある意味強力で、とかく“曰く(いわく)”というものを気にする我々日本人にとっては、思わず鳥肌が立つもの。『リング』の呪いは、ビデオを自ら進んで見てしまった場合に降りかかるものだし、『呪怨』の家であれば、踏み入らなければ免れるかもしれない。では、この『叫』の場合の怨念は?
「私は死んだ。
だから、みんなも死んでください……」
ジャケットのこの言葉が示すもの。
それは果たして…
そしてこの映画、傑作です。