ラウぺ

FAKEのラウぺのレビュー・感想・評価

FAKE(2016年製作の映画)
3.5
ゴーストライター問題で話題となった佐村河内守に問題発覚後8か月後くらいから1年弱ほどかけて密着取材したドキュメンタリー。

この映画をどのように捉えるかは微妙な問題が絡み合い、一言で評価を下すのは殆ど不可能といってよいと思います。
ましてや、ぶっちゃけ、決して楽しい類の映画ではありません。

そもそもこの騒動の始まりともいえる情報に触れたのは、HMVで話題の書籍として採り上げられた佐村河内守の「交響曲第1番」のページを見たのが最初でした。
被爆二世として生まれ、全聾の作曲家という触れ込みの佐村河内守が交響曲第1番《HIROSHIMA》を書き上げるまでの壮絶な人生を語った話題の書、ということで喧伝されていたわけです。

まあ、とにかく、実際の曲を耳にする前からこうした騒ぎが起きていたわけです。
リゲティやペンデレツキといった「懊悩する音楽」が大好物な私としてもこれはやはり聴いておきたいと思い、CDが出たときに購入しました。
人気沸騰中で入荷まで随分待たされた記憶があります。
曲自体は80分近い大曲で、3楽章構成ながら、曲の大半はまさに懊悩する音楽でしたが、最後の数分に霧が晴れるように明るい曲想に変わり、一条の光明を見出す、という構成になっています。
この手の曲の大半がそうですが、数回聴いただけでは曲の構成や好悪もわからないので、何度も聞き返しましたが、正直なところ、「現代のベートーヴェン」などと称されるという印象は持ちませんでした。
その後、間もなくして新垣隆の例の会見があって、曲の構成を佐村河内守が指示をして新垣隆が実際の作曲をしていた、ということが明らかになったわけです。
このとき、新垣隆は佐村河内守が耳が聞こえないという印象は持たなかった、と言ったことで、全聾の作曲家というメッキまでも剥がれてしまったのです。
NHKスペシャルでの「作曲中」のただならぬ雰囲気といったものは、実際には単なる演技であったこともあって、日本中のバッシングの対象となりました。

このドキュメンタリーは事案発覚の後、佐村河内守に密着して自身の立場や新垣隆、告発記事を書いた神山典士への恨み節などが語られています。
この点についての佐村河内守の言い分は
・障害者手帳を持つほどではないが感音性難聴であるという診断があるのにマスコミは報道していない
・新垣隆は佐村河内との会話で聾唖者だと思ったことはない、とウソの発言をしている
といったことです。
映画の最初のほうで、上記の発言があるわけですが、佐村河内守の謝罪会見ではっきり本人が述べているように、当初は全聾ということで障害者手帳を発行され、問題の発覚後に返納している、という部分が抜け落ちてしまっています。
本人の発言がないのみで、前提として当初は全聾ということで障害者手帳を持っていた、という事実に映画が意図的に佐村河内に不利な前提を描いていない、とまで言えるかどうかはともかく、この点を知らない人にとっては出発点からして映画の情報のみでこの問題を判断しようとすると、大きな過ちを犯すことになるでしょう。

ここまで長々と説明してきた意図は、この映画がこの問題を語るうえで、一つの材料を提示するに過ぎない、という点をしっかり認識しておく必要があるからです。
森監督は新垣隆や神山典士への取材を申し入れたが断られた旨の説明が入っていますが、結果としてこの映画は事実の検証といった要素はまったく無しに、単に佐村河内守に密着し、その言動を追う、というその一点にのみ、集中して撮られています。
なので、この一連の事案のひとつのフラグメントとして、佐村河内守の生の声を聞く、という一次情報としての価値はありますが、単独で映画の意味や内容を云々することはまったく不可能といってよいと思います。
おそらく、今後長い年月をかけて、関係者が口を開き、ひょっとすると裁判などを通して全体像が見えてきたときに、あのとき佐村河内守はこういうことを言っていた、という点に、この映画の価値が見えてくるのではないでしょうか。

淡々と当事者本人の語るところを見るうち、「池に落ちた犬」が如何に悲惨であるか、といったことや、マスコミの報道姿勢がどちらか一方に偏りがちであること、たとえ部分的であるにせよ、それを殆ど生のまま報道する(=映画化する)ことの是非、といった様々な問題が脳内を駆け巡りました。
何度も言っているように、これのみで事実を判断することなど不可能なので、単純に佐村河内の言っていることにも一理ある、と考えてしまう人が大量生産されかねない、といった危惧も感じないわけにはいきませんでした。

ラスト12分のことはナイショに、という触れ込みですが、それは見てのお楽しみということで。
確かにそれまでの情景からすると、驚くような展開といえるものがありますが、果たしてどう判断したものか・・・
一見すると映画の姿勢そのものへの批判のように見えるかもしれませんが、そういうことではなくて、単なる一つの素材としての価値は限定的でそれのみでは批評不能である、という点を強調しておきたいと思います。
また、この2時間近い映画の本当の驚きは実は最後の数秒間にある、とだけ言っておきましょう。
この一瞬があるために、森監督はとりあえずジャーナリズムの矜持を保った、といえるのかもしれません。
ラウぺ

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