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ジーザスキャンプ 〜アメリカを動かすキリスト教原理主義〜の東京キネマのレビュー・感想・評価

4.0
ドキュメンタリーとしてはそれほど革新的なものはないけれど、結構面白かった。 この映画の視点は非常に単純で、今のアメリカでは人口の約25%(8千万人)が福音派に属していて、(キリスト教右派のラジオDJが言うように)“こいつらの話を聞けば聞くほど気が狂っているとしか思えない”という反カルトの直球プロパガンダになっている。

意図したのかどうか解らないけど、何しろ説教垂れる人達はブクブク太ったデブか人相の悪いデマゴーグしか登場しないし、“子供を利用すべき” ということで説教されるのは無防備でいかにも可愛らしい幼気ない子供たちばかり、という非常に解り易い対比にしている。 でもこういった狂信的なキリスト教原理主義者は飽くまで一部だし、福音派と呼ばれる人達全てがこの映画に出てくるような基地外でもない。 だからこの映画の方法論はショック療法としては良いけれど、まあ入門編程度で理解した方が良いだろうね。 こういったバカバカしいほど単純なドキュメンタリーってのは多少眉唾で見た方が正解です。 『不都合な真実』でも痛い思いしたもんね。

でも私が思うのは、カルトの定義をしっかりしてくれ、というのと、じゃあ日本の場合はどうなの?ってこと。 日本で元気な東何時境界とか草加なんかはフランスじゃ反セクト法(カルト防止法)で完全にアウトだし、そもそもフランスでこの法律が出来たきっかけは東何時境界がフランス国内で社会問題化したからだ。 この反セクトの定義ってのは幾つかあるんだけど、例えば “法外な金銭的要求” とか “生まれ育った環境との断絶” なんかは外形的な判断が非常に難しい。 “法外・・・” なんてのは相対的な問題だし、寄進する本人が功徳だと言えば他人がどうこう言えることじゃない。 それに、“生まれ育った環境・・・”にしても、(この映画のように)その生まれた家族の両親が信者だったらどうしようもない。

特に日本の場合、神道のように汎神論的で緩やかな宗教観を持っているから、どんな宗教であってもそれは認めてあげましょうというのが根底にあって、だから心情的にもカルトに厳しく出来ないって事もあった訳だし、これは別に政治がだらしないってだけの話じゃない。

草加あたりは布教活動が実質集金システムとして機能していて、お金が集まれば大躍進とか大勝利とかやってるけど、この映画のような福音派の活動の方がまだ純粋な宗教活動に見えるし、お金が絡んでいないだけ(見えていないだけかも知れないけど)、日本より遥かにマシに思えるのですよ。

何故日本のカルトが集金マシンと化すかと言えば、そこには信心して財務(お布施)すれば、それに比例して現世利益(げんざりやく)があるというロジックがあるから。 でもそもそも神道にも仏教にも “信心すれば(経済的な)利益がある” なんて現世利益の考え方はなかったのですよ(厳密にいえば、キリスト教にもないです)。 本来、祈るのは“魂の浄化”と“万物への感謝”のためだけです。それが布教のためか、世界が資本主義社会に移行したからか解らないけど、「信心の深さ=お布施=現世利益」となってしまった。 で、一番こういったことを悪用しとるのが日本のカルトな訳だ。 特に日本のカルト教団の指導者が挑戦系になったりすると直ぐ双連とか挑戦玉入れとかとくっついて悪さをする。 税金免除どころか銀行預金の利子まで無税でポッポに入るし、こういったお金がどれだけ北朝鮮に渡ったか解りゃしない。 日本の拉致問題にしたってこういう関係性がなけりゃ起きなかっただろうし、もうそろそろ日本もカルト防止法を真剣に考えなきゃいけないんじゃないですかね。 それに、日本は政教分離どころかカルト政党があったり、そこが政局のキャスティングボードを握ったりと危なくってしようがない。 ここの政党の元幹事長あたりが“暗殺計画があった・・・” とか “組織的な恫喝や強要は当たり前” とか手記に出版してるくらいだもの。 どう考えたって草加なんてのは基地外集団だろうし、この映画のような主旨で映画なんか作ろうもんなら、妨害工作やら恫喝やら何があるか解ったもんじゃない(伊丹十三のような話だってあった訳だし)。 だから、反カルトの映画を作れるアメリカの方が遥かに健全じゃないかって思うんだよね。

だいぶ脱線しちゃったけど、こういうことを考えるきっかけになったということは、この映画の主旨はある意味成功したんだろうと思うし、むしろ日本の方が現状は悲惨じゃないかって思えてくる。 だから、この映画のテーマは日本の問題として捉えたほうが正解ですね。
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