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旅の重さのotomisanのレビュー・感想・評価

旅の重さ(1972年製作の映画)
4.2
 これの感想を爺目線で書くことになろうとは。
 大人はいやでも子供から見られていて真似されている。真似て、あるいは真似ようかと思っていやだと感じれば大人を嫌うかもしれない、さもなければセカンドオピニオンを探しに出ていく。その大人を心から締め出すとか、見えないところに行ってしまうとか。
 きっと似た者同士と分かり合ってるつもりの子と母だったろうから切っても切れずに娘は言葉を届けるんだが、教師の手前を取り繕う噓しか口にしない母も木村の男と暮らし始めた娘に何か自分と重ね合わすところがあったろうか、届いた手紙を裂いてゆく、あの締めくくりに母親も娘の言葉に得心いったのか?何となく男には分からん感じのものを覚える。これからも教師にも誰にも家出と告げない覚悟で娘の投企を見送るだろう姿に、いつか訪れる事と心中の娘のおき場所を封じる想いが湧いてくるんだろうか、いつか娘が舞い戻る時はきっと別の女を迎えるようなつもりになっている気がする。
 健康であるべきなのは、こんな出てゆかねばならない覚悟を支えるのは健康が第一だからである。その点、秋吉ではいけないし、やけに健康そうな高橋でなければ、欲望と愛着とに曝されて、旅の一座を去って死ぬまで歩こうと、歩き疲れようともありったけ燃やし尽くさねば続く立て直しが始まらないと映画が主人公を追い込むことができなかったろう。
 死の淵まで行っても木村の男が仏に見えたのならまだまだ生乾きという事だろうが、暮らしは濡れたり乾いたりの繰り返しで、乾き切っただの沈み切っただのと行き付いてにっちもさっちも行かないなんてそうあるわけじゃないだろう。それなら、母親とあの帯問屋の男との事を知って息苦しい際に沈み切ったと思ったからこそ日常から逃げて四国まで来たんだろう。だからその、ただ、どんなマエがあるか知れない木村の男の妙な落ち着きが差し当たり信じるしかないかというかよろしくというか思わせるんだが、そんな風に思ってしまうあたり、歳かなと感ぜざるを得ない。
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