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荒野の決闘のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

荒野の決闘(1946年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

「ワンハリ」を見て以来、古き良き西部劇を最近見直しています。
その中でもこの映画は「古典的な美しさ」という点で、ハリウッドの映画様式を代表する一本だと感じました。

マカロニウェスタンを知っている方から見れば、この映画のようなクラッシックな正調アメリカ西部劇は刺激が少ないし、地味だと感じるでしょう。

私もそうでした。

同じジョン・フォード監督の「駅馬車」が動の西部劇なら、「荒野の決闘」は静の西部劇との声もあるくらいです。

しかし、1946年のこの映画こそ、本来の西部開拓を描いた一本と言えるのではないかと思うのです。

西部劇、というものを理解する作品として、映画史的にも重要な一本だと感じました。

何せ実在の人物、ワイアット・アープ本人から話を聞いて作られた作品ですから。


メキシコからカリフォルニアへ牛を運んでいた途中、アリゾナのトゥームストンへ立ち寄るワイアット・アープとその兄弟。

だが、留守をまかせていた末弟は何者かに殺され、牛も盗まれてしまう。

クラントン一家がその犯人であると踏んだワイアットは、保安官となってトゥームストンに留まる事を決意する。

町では賭博師ドク・ホリデイと知り合い、次第に友情を深めていく一方、ドクを追ってやって来たクレメンタインという名の美しい婦人に一目惚れするワイアット。

やがて、ドクの愛人チワワが、殺された末弟のペンダントを持っていた事が発覚。それは、クラントンの息子に貰った事が判明する。

末弟が殺された証拠を掴んだワイアットは、クラントン一家が待ち構えるOK牧場へと乗り込んでいく…。

鑑賞して思ったのは、アメリカ人にとっての西部劇とは、実はアクションドラマと言うよりは、アメリカ開拓の事実を描いた開拓民のドキュメンタリードラマとしての面が、基礎としてあるということです。

この映画は「OK牧場の決闘」として西部の伝説となっていた事件を、監督のジョン・フォードが当時存命だったワイアット・アープ本人に直接取材した内容を反映させたもの。

いわば歴史的事件の記録映画としての側面があります。

それゆえに、この映画で描かれる決闘は、盛り上げるようなショーアップな演出はされておらず、とても地味です。
しかし、そこに記録映像のような趣きがあります。

こんな地味な決闘でも、当時の西部では大事件だった訳です。
その点を考えれば、事実がもつリアリティを感じます。

この映画が表している西部開拓の事実とは、人々は基本的に【穏やかに慎ましく暮らしたい】と思っているということ。

新天地で平穏に暮らすことに、喜びや希望を持っているにも関わらず、時として平静が乱され「決闘」という命の奪い合いが発生してしまう。

テロに報復するアメリカ。
現在にも通じる真理なのではないでしょうか?

西部に実際に起きた事件を題材として、ジョン・フォード監督は、この映画で「勧善懲悪」を描いた。

そして西部開拓の中の「ロマンス」や「友情」を描いたことで、西部劇がアメリカ国民(特に白人)の精神的な支柱へと変換し得たと思うのです。

【穏やかに慎ましく暮らしたい】しかし、【平穏な暮らしを妨げる者は決して許さない】

まるで目には目を…ハンムラビ法典のようでありますが、それこそがアメリカの銃社会の基盤であるとも言えます。

ただし、この映画は、西部開拓時代の開拓民たちの生活を描き、心情を詩的に表現していると思います。

【穏やかに慎ましく暮らしたい】という想いが大きく描かれている。

冒頭でワイアットが人懐こくクラントン一家と世間話をしたり、
ドク・ホリデイが芸人のハムレットのセリフを静かに聞き入ったり、
元カノであるクレメンタインがドクの病気を心配し、ワイアットが気を利かせて、その場を去ったり、
ワイアットがクレメンタインに抱く淡い恋心だったり、
床屋や酒場の親父の何気ない仕草や表情だったり、
ワイアットが何気なく柱に足をかけて椅子に座り、退屈して椅子を揺らすシーンだったり、
穏やかな「日曜日の朝」の様子だったり…

とても些細なシーンが心に残ります。

そんなことを考えると、この映画以降の古典的なハリウッド西部劇は、西部劇の史実を踏まえつつ…
開拓者であるアメリカ国民(白人)のアイデンティティに訴える道徳心となっていったのではないでしょうか。

それは、できるならば【穏やかに慎ましく暮らしたい】という想いです。
シツコイですが。

そういう意味で、この映画の「荒野の決闘」という刺激的な邦題は、やはり誤解を招きます。

この映画は、実は西部開拓に伴うアメリカ人の実直な生活の記録であり、アメリカ人が西部の荒野を切り開いた事実の讃歌として描かれた作品だったのではないかと思います。

決闘の後にワイアットが去り、街に1人残り、これからの希望を象徴する、クレメンタインを応援するかのような原題「愛しのクレメンタイン」の方が、誤解が少なかったように思います。

もうこのような映画は作られないでしょう。

この映画は開拓者である白人のノスタルジーなのです。

結局、この作品で描かれた西部開拓の叙事詩よりも、この作品以降の西部劇の派手な決闘シーンが人々の印象に残るのは、映画という娯楽要素が強い芸術が持つ宿命なのでしょう。

その事実はマカロニ・ウェスタンを見れば一目瞭然です。

酒場で泥酔した先住民をアープが取り押さえるシーンが先住民敵視だとか、
モニュメント・バレーの絵ハガキのような画面作りは「征服者のアングル」だとか、
広大な土地を白人が先住民から奪ったんだなととか…。

美しさの中にも、現在ではタブー視される要素が見えてしまいます。

できるならば【穏やかに慎ましく暮らしたい】という西部劇の「古典的な美しさ」、開拓者である白人のノスタルジーにどっぷりと浸ることが出来る心地よい作品です。

これはガンアクション映画ではありません。
ワイアットとクレメンタイン、ドクとチワワの実らない恋にホロリと来ます。

古き良き時代に想いを馳せる、開拓時代のメロドラマなのです。
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