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ブロンテ姉妹のkuuのレビュー・感想・評価

ブロンテ姉妹(1979年製作の映画)
3.0
『ブロンテ姉妹』
1979年フランス映画すね。
野心家のシャーロット。
荒野をズボン姿で彷徨う個性の強いエミリー。
家族の運命を静かに見つめるアン。
女性の活躍して前に出る事が制約されとった19世紀前半(いまでも悲しいかな一部ではあるけど)のイギリスでブロンテ三姉妹が、短けぇ生涯の内に遺した著作は大きな光彩を放ってるかな。
彼女たちには、望み大きモンを抱きながら、酒とアヘンに身を持ち崩しよった兄弟、ブランウェルがいた。
三姉妹役はマリー・フランス・ピジェ、イザベル・アジャーニ、イザベル・ユペール、今じゃ彼女も68才かぁ今でも美しいけど、この作品のころは余計に輝いとる。
アンドレ・テシネが資料に忠実に姉妹の生涯を映画化やそうです。
台詞は全編フランス語。
撮影監督のブルーノなんちゃらがイギリス・ヨークシャー地方の荒涼としたたたずまいをフィルムに定着させている。
19世妃半ば、
ハワースの丘に牧師の父(パトリック・マギー)と、
シャーロット(マリー・フランス・ピジェ)、
エミリー(イザベル・アジャーニ)、アン(イザベル・ユペール)
の三姉妹と、
弟ブランウェル(パスカル・グレゴリー)
のブロンテ一家が住んどったとさ。
姉妹は秘かに小説を書き、
まずシャーロットの
『ジェイン・エア』がロンドンで出版され大評判をとりよった。
次いで、エミリーとアンの作品も出版され話題を呼びよったが、
女性の権利が認められへん時代やったし、様々な混乱が起こる。
ほんで、人生の大半をハワースの丘で静かに過ごした姉妹は、次々と病に倒れよって、
流行作家となったシャーロットはふとその淋しさが胸を打つのだった。。。

世界は過ぎ去り行く。
諸行無常なのに、次から次に生じ、その場で消費されよって、消え去り続ける。
だから人は世は儚い。
世、ほんで、我々は、小せぇ死の連鎖の中に投げ込まれていると云いもする。
死するべき光の矢とは、これを意味すんのやろう。
実体の表層に一瞬だけ住み着いて、
次の瞬間消えててしまう。
非実体的な『出来事』。
実体さえあらへん様態の定在のない亡霊的な表皮。
これが光の矢やわ。
我々が死すべきものであるのは、この光の矢の中でしか生きることが出来ひんからや。
せや、映画においては、これが逆転しちまうことに注意する必要があると思う。
映画において、この死すべき光の矢こそがフィルムの上に定着されて、
半永久的に反復する永世となるからや。
そこじゃ、永遠の過ぎ去りが一つの永遠となるのやさかい、
実体のない光、出来事の泡の粒の様な表皮、言わばエピクロス的、現実の煩わしさから解放された状態を『快』として、人生をその追求のみに費やすことが飛び交う表層が一つの永遠となる。
そこにゃ過ぎ去るのは浮薄な光線じゃなく、
実体のほうでやし、世界の強固な支えであるはずの
実体イコール物質イコール身体
こそが消え去って行くのんであって、逆に儚さが永遠となりよる。
死すべき光の矢、そのものが一つの不死の世となる。
一言で云やぁ、映画において死すべきものが永遠となり、
逆に永遠であるはずのものが奇妙に死 の中に転落することになるんかなぁ。
なんて、眠たさ募る春宵に考えた一本かな。
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